お世話になりました
藁 品 正 敏
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居室でくつろぐ筆者 |
出会いと別れは人の世の常,これから春爛漫(らんまん)というこの時期に,私は定年退職を迎えることになりました。長い間,研究と教育に楽しく過ごさせていただいたことは,皆さまのおかげと感謝申し上げます。
私の研究との出会いは,1963年4月に麻布,六本木の龍土町にあった東大生産技研に始まります。すでに宇宙研を退官された後川昭雄先生のご指導のもとで,トンネルダイオード(半導体)の特性を調べる実験をしていました。データをより多く得るために,終日,測定器(容量ブリッジ)の前に座らされていたのが懐かしく思い出されます。先生からデータの催促があったことも鮮明に覚えています。私のデータ整理の精度が悪いので,携帯用計算尺ではなく,もっと長くて大きい卓上用の計算尺を先生から貸していただいた。ありがたかったことを思い出します。私はこれを長く愛用しました。パソコンのない時代でした。時々,内之浦の実験場への出張に,通信班として駆り出されるようになりました。実験場が開所したばかりのころで,場内設備は不十分でした。場内放送用のケーブルを,コントロールセンターから山の上の報道班まで,道の側溝に沿って配線しました。長靴を履き,汗をかきながら1日がかりで配線したことが思い出されます。
その後1964年7月,目黒区駒場の東大宇宙航空研に移り,それ以来,宇宙研,宇宙航空研究開発機構とともに歩んでまいりました。その間,ロケットや衛星の追跡があり,研究テーマは何回か変わりましたが,幸いにも半導体に関連するものでした。
それらのテーマの一つとしてアモルファス太陽電池を試作していた時期,宇宙研に大変なご迷惑をかけてしまいました。お別れに際し,あらためて謝っておきたいと思い,筆を執ることにします。
1989年,相模原キャンパスに8階建ての本館が新築されたばかりの夏。7階にある,われわれの実験室の試作真空槽につながる拡散ポンプ用冷却水が,ビニール配管接続部から漏れ続けた。帰宅して実験室に誰もいない深夜から早朝にかけて水圧が上昇し,弱い接続部が破損したものと思われる。朝9時ごろ宇宙研に来ると,門衛で私が呼び止められ,「1階ロビーの天井から水が垂れている。事故が発生している」と言われたのである。7階の実験室内は足のすね付近まで水がたまり,廊下にまで水が流れ出ていた。6階,5階へと階段を通じて水は流れ落ちていた。実験室内の開けっ放しだった水道の元栓は閉じられていた。管理部,エネルギーセンターの皆さまが一丸となって,水をポリバケツで流しへかい出していた。大変お世話になり,誠にご迷惑をおかけしました。ご協力ありがとうございました。
早速,所長をはじめ,各階の実験室,エネルギーセンターなどへおわびのあいさつに走り回りました。シンクロスコープが水をかぶった下の階の実験室を訪ねたとき,1週間ぐらい乾燥させてからシンクロスコープの電源を入れれば大丈夫だと言ってくださった。私はホッとしたと同時に感謝致しました。その後,私は事故対策の所内会議に呼び出された。
1990年ごろから私の研究テーマは変わり,半導体の材質を光学的に評価するフォトルミネッセンスが現在のテーマです。田島道夫先生のご指導のもとで,多くの評価手法を教えていただきました。その新テーマに取り組み始めたころ,私は田島先生に疑問点をお尋ねする機会が多かった。そのたびに親切,丁寧に答えてくださったことが思い出されます。お答えくださったときは,私は理解した気になっているのですが,2〜3日後,また同じ内容を質問してしまいました。このような繰り返しの多いことが田島先生をあきれさせてしまいました。ついに先生から「これから先,こんな人と一緒に研究するのかと思うと……」といったお言葉をいただいてしまった。ご迷惑をおかけし大変お世話になりました。ありがとうございました。懐かしく思い出しています。それ以来,メーカーの研究員,大学院生や卒業研究生とともに,研究生活を心して過ごしたつもりでございます。年月が流れるのは早いもので,過ぎ去るとあっという間でした。多くの出会いとさまざまな思い出を胸に退職できることを感謝しています。
宇宙科学研究本部,研究室のさらなる発展と皆々さまのご多幸を祈念致しましてお別れの言葉と致します。長い間,ありがとうございました。
(わらしな・まさとし 宇宙探査工学研究系)
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