No.276e
2004.3 号外

ISASニュース 2004.3 号外 No.276e 


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尽きない思い出 

中 村 良 治  


愛犬「リュー」と

 私と宇航研の出会いは,確か1969年(昭和44年)の11月であった。当時,私は東京教育大の博士課程に在学していて,小島昌治研究室でプラズマの実験を行っていた。小島研は毎年1回,他の研究室を見学するのが習わしで,宇航研を訪問したのである。スペースチェンバーの大きさは驚きであった。

 この年の12月に博士論文を提出し,3月に修了することになった。翌年になって宇航研の永田武研究室で助手を募集していたので,これに応募する。永田先生は,本務が東大で宇航研は併任であった。週一度,宇航研にいらっしゃるときにはケーキを買ってこられ,秘書さんたちと歓談しておられた。話がそれたが,面接をするというので45号館の伊藤富造所員室に呼ばれて,黒板を用いて博士論文の内容を伊藤先生に説明したのが,まるでついこの間のことのようである。



 こんな立派なチェンバーがあるのだから,これを使って新しい実験を行って,この存在を世界に知らしめなければならないと,その保守をしていた小嶋技官の助けを借りて,チェンバー内に電子プラズマ波を伝播させた。その振幅を増大すると,波のエネルギーが電子に移るため,減衰が大きくなることを見いだした。この成果を米国のPhysical Review Letterに発表した。

 この研究から,波を観測するには電子密度の濃淡を検出すればよいことが分かったので,電離層中の擾乱(じょうらん)を観測するために,K-9Mロケット44号機の先端に電子を捕集する電極を取り付けた。ロケットは,1973年8月に打ち上げられ,高度約93kmのスポラディックE層中に10m程度の波長の密度ゆらぎ(最大5%)を観測した。これは世界で初めて,中緯度の電離層中に波動の存在を発見したものである。



 内之浦滞在はこのときが2度目で,最初に訪れたのは1971年の暮れ,「しんせい」の追跡の際であった。初めてで行き方が分からず,市川満先生に同行した。寝台車で着いた西鹿児島駅から真っすぐ埠頭(ふとう)まで歩いて桜島を眺めていると,後ろで中国語が聞こえる。振り返ると,地元のおばさんたちが鹿児島弁でしゃべっているのであった。

 その後,内之浦へはロケット観測や衛星の打上げと追跡で,何度訪れたことか。「陸の孤島」といわれるだけあって,不便さの裏の自然の豊かさにあふれている。銀河荘(現在のコスモピア)近くの河口で,投網でボラを捕ろうとしている人がいるので見ていると,網が持てないくらい,ひと網で10匹も入っていた。冬の夜に浜に出てみると,河口付近で何人もの人が頭にランプをつけて,網でウナギの稚魚をすくっている。闇の中に点々とランプの灯。聞こえるのは打ち寄せる波の音。

 波の間に月影踊るシラス捕り。



 ロケットの実験主任の仕事も何度かあった。発射の瞬間から着水までの息の詰まる時間は,いま思い出しても嫌である。何か新しいことを初めて行う場合は,なおさらである。

 雨天ではロケットを打ち上げられないので,それが可能なようにドームを建設し,S-310-10号機(1981年8月)をそこから発射した。また,以前はメーカーから技術者を派遣してもらっていたが,経費削減のためと,今までの経験でわれわれももう慣れているだろうと,所内の職員だけで打ち上げることにした。これも私が実験主任で,S-310-15号機のとき(1985年2月)である。幸い両機とも成功したが,いま振り返って残念なのが失敗したロケットである。K-8M-71号機(1980年9月)の観測機器は,第段の燃焼の末期に生じた衝撃のために動作を停止した。実は,その前々日に打ち上げられた70号機にも同様な現象が起こっていた。そのため,71号機の打上げには乗り気でなかった。しかし,検討の結果,71号機は大丈夫だということになり,打ち上げたのだった。K-9MS-310のほかに,MTやバイパーの実験主任もおおせつかったが,みんな不具合がなく実験を行うことができた。コントロールルームからたびたび隣のレーダーの建物を訪れ,豊留法文さんにコーヒーをごちそうになったことも忘れられない思い出である。



 まだまだ思い出は尽きない。永田武先生,実験主任のお手伝いをした大林辰蔵先生,シンポジウムのプログラム作成で部屋に伺うとまずガソリンを入れなければとウィスキーをごちそうしてくれた小田稔先生,チェンバー実験でもお世話になった伊藤富造先生と小嶋学技官は他界されている。やはり,34年間の年月の重みを痛感させられる。研究生活を離れるのは残念ではあるが,残された人生にまた新しい思い出を刻むべく,生きていくほかはない。

(なかむら・よしはる 宇宙プラズマ研究系) 



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