No.276e
2004.3 号外

ISASニュース 2004.3 号外 No.276e 


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- ごくろうさまでした
+ 皆さん,左様なら
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- 宇宙研での思い出
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皆さん,左様なら 

二 宮 敬 虔  


SEPACのころ(向かって右から3番目が筆者)

序章

 デンバーの西,標高3,000mのスキーリゾートで毎年開かれるAAS Rocky Mountain Guidance and Control Conference2日前から来ています。昨夜,的川先生からの本稿執筆依頼の電子メイルを読みました。ちょっと個性のある当コンファレンスには,「ぎんが」の姿勢制御の結果を引っ提げて,現NTSpaceの前田健さんと出席して以来,かなり足しげく出席してきましたが,これも今回が最後になるでしょう。旧NASDAの岩田隆敬さんがALOSのスタートラッカの話をされ,ASTRO-EASTRO-Fのものをベースにしていることに触れましたが,さらにその大元は「ぎんが」に由来するのです。1970年代末から,広川英治君や大学院生,NECの方々とともに(小川原嘉明先生のご指導のもと),当時はまだメーカーで試作中のCCD素子を譲り受けて開発を始めたことを懐かしく思い出しました。「ぎんが」は日本で初めて搭載計算機による“独自方式”の三軸姿勢制御を行った衛星で,そこに至る“もろもろの”(という表現にとどめますが)いきさつを含め,私にとって忘れることのできない衛星です。スキーをしない私の昼間の有効利用法(セッションは早朝と夕刻)として,36年間の回想をもって本稿をつづり始め,皆さんに左様ならを言うことと致します。


本章

 宇宙研に私が奉職した1968年3月前後は,ラムダ型ロケットの失敗が続いていて,関係各位にとっては言いようもなく苦しい時期であったと思う。しかし,この間も科学衛星の準備は着々と進められていて,斎藤成文,野村民也,林友直先生より,衛星姿勢制御を担当するようお薦めいただいた。大学院期を電子工学分野の研究で過ごした者にとって,これは一大転機であった。幸い,わが国の衛星産業の草創・黎明(れいめい)期であって関係各位の意気は高く,所内だけでなくメーカーの方々も一丸となって努力しておられ,これらの方々からも絶大なるご指導,ご支援,ご協力を受けることができた。米国技術の学習から出発して,姿勢制御方式の研究,姿勢センサやアクチュエータの開発に夢中であった。

 1974年打上げの「たんせい」で地磁気トルクによる姿勢制御を試み,うまくいったときは,さすがにうれしかった。「たんせい」では,北極上空からオーロラを撮像する「きょっこう」のための“沿磁力線姿勢制御”実験に成功した。大学院生の寄与も大きかった。「たんせい」では,念願であったフライホイールを無理言って輸入,姿勢制御に用いることができ,続く多くの科学衛星の制御に自信が持てるようになった。

 もちろん,紆余(うよ)曲折は避けられなかったものの,1980年代になると宇宙開発事業団の技術開発が進んだ影響もあって,科学衛星の周辺環境は整ってきて,先述の「ぎんが」の実現に至った。これは,著しい科学的成果を生むに至った後続の科学衛星,特に天文観測科学衛星への大きなstepping stoneであったと思う。また,(細かい話がさらに細かくなって恐縮であるが)科学ミッション達成のために要求される性能と品質を,限られた“資源”の中でいかに実現するかの関係各位の厳しい努力から,「ようこう」「あすか」などの“バイアス角運動量”と“内力トルク”による初期姿勢捕捉(ほそく)方式や安全化姿勢制御方式など,宇宙研独自の方式や技術が生み出されたと言えよう。しかし一方で,今後の進んだ科学衛星に対しては,“前世紀”までのこのような“精神主義的”ともいえるアプローチは,限界に来ているとも思う。要求技術レベルに応じた適切な“資源”の配分が望まれるゆえんである。

 私の宇宙とのかかわりで別の大きな柱となったのは,有人宇宙プロジェクトへの参加である。故大林辰蔵先生が進められたNASAとの国際協力ミッション「粒子加速器を用いた宇宙実験(SEPAC)」を,ESA(ヨーロッパ宇宙開発機構)のスペースラブに搭載し,米国スペースシャトルで打ち上げて宇宙実験することが決まり,キーメンバーの一人に加えていただいた(1975年末)。パイオニア長友信人先生の後を受けて,アラバマ州ハンツビル市マーシャル宇宙飛行センターに派遣され,家族とともに1977年春から16カ月余り滞在した。SEPAC実験は1983年末に行われたが,この間および次述のSFUプロジェクト参加を通じて,世界中の実に多くの多岐・多様な人々と邂逅(かいこう)し親しく交流できたことは,私の世界を大きく広げ,人生を豊かにし,楽しい思い出をいっぱい残してくれた。

 SEPACに続いて,1987年度から始まった「スペースフライヤー計画(SFU)」では,国内で共同開発した再使用型宇宙機SFUH- IIロケットで打ち上げ,軌道上で運用の後,スペースシャトルで回収して地上に持ち帰った。私は,航法誘導制御系の開発に関与させていただいたほか,プロジェクト主査である栗木恭一先生を補佐して,地上運用管制システム開発や,安全審査,回収運用計画管理などを担当させていただいた。若田光一宇宙飛行士操るシャトル遠隔操作アームRMSによる回収・地球帰還から,去る1月ですでに8年が経過したことを思うと,実に感無量である。くしくも,今回のこのコンファレンスで,SFU回収シャトルSTS-72の船長Brian Duffy宇宙飛行士(最近引退)と再会することができた。

 いま振り返ってみると,この36年間をいつもあわただしく駆け抜けてきた感は否めないものの,私にとってこれは結構充実した時間であり,自分としては十分に楽しんできたこともまた事実である。宇宙機関統合直後のこの過渡期に宇宙研を去るに当たっては,大組織化に伴う平準化,画一化,非能率化(無駄)など気になることは多々あるが,そこは多士済々の宇宙科学研究本部のこと,いずれは従来の宇宙研の文化と伝統,気概を根に据えた強力な協力体制を定着させ,JAXA全組織の融合と発展に寄与していくものと信じたい。“Let me keep my fingers crossed and hope for the best.”であるdash なお,私が好きなこの表現(勝手にusmeに変えた)の由来を私は知らないdash


終章

 ところで,今朝のセッションは“Back to the Moon”で(Bush大統領の演説よりもずっと前に企画されたそうですが),いまはご老体となった当時の担当者からサターンロケットやアポロ宇宙船の誘導制御の話がありました。果たしてアメリカあるいは世界は,いつ月に帰れるのでしょうか。ある新聞記事に,ある大学の先生の言として“Bush proposal is a stellar example of the old curse: Be careful what you wish for-you may get it”とありましたが,たとえ呪(のろ)いであっても現実になってほしいとは思いませんか。今夜のコンファレンスディナーの余興講演は,かの著名な Richard Battin先生の“Strange thing happened on the way to the Moon”です(資料はhttp://www.aas-rockymountain-section.org/に掲載されるとのこと)。

 2004年2月7日,コロラド州Breckenridgeにおいて

(にのみや・けいけん 宇宙探査工学研究系) 



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