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No.289 |
特集 1955年ISASニュース 2005.4 No.289 |
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5 ベビーへ●大型化への一歩![]() ペンシルに続くダブルベース推薬の二番手は,外径8cm,全長120cm,重さ約10kgのベビーロケットだった。富士精密では,すでに先行的な燃焼実験を行っていた。ベビーは2段式で,S型,T型,R型の3つのタイプがあり,1955年8月から12月にかけて打ち上げられ,いずれも高度6kmくらいに達した。S型では,発煙剤を詰め,その噴出煙の光学追跡によって飛翔性能を確かめた。T型は高木,野村や電気メーカーの努力の結晶である我が国初のテレメータを搭載したロケットであり,R型は植村恒義の写真機を搭載し,それを上空で開傘回収する実験に成功した。日本初の搭載機器の回収であった。 ベビーR型1号機のときには,いつも糸川の愛用車を守っている方位神社のお守り札がロケットに載せられて打ち上げられ,搭載カメラと一緒に回収された。海水にぬれたお守りを手のひらにのせて,世界初の海上回収の喜びを語る糸川の写真が,翌日の新聞を飾ったことは言うまでもない。 糸川から,「ロケットを打ち上げるときの軌跡をトランシットで追跡し,地球観測年に所定の高度を確保するためのデータを収集してくれませんか」との依頼を受けた丸安隆和の記憶。
●決死の匍匐前進
1955年9月19日,曇り,風強し。この日の午後3時ちょっと前,一人の男が道川海岸の小屋から出て,海の方に向かって匍匐前進を続けていた。それを物陰から固唾をのんで見つめる男たち。男がはっていく方向を見ると,砂地の上にロケットが1機,ゴロンと横着そうに転がっている。いや,よく見ると転がっているのはモータ部分だけで,ちょっと離れたところにはロケットの頭部カバーが砂浜に頭を突っ込んでいる。 男は背後の通称「かまぼこ小屋」から約70mを駆けてきたのだが,ロケットを目前にして四つんばいに変わり,ソロリソロリと近づいていき,やがてロケットに手を掛けた。事情をよく知るほかの男たちは,思わず目をつむった。合掌する姿もある。そう,このロケット・モータには推薬が詰まっているのである。それだけではない。その推薬に火を付けるための点火器の作動時刻がとっくに過ぎている。 つい先ほど,午後2時40分,ベビーT型ロケット2号機が打ち上げられた。1段目は順調に燃えたが,どういうわけか2段目に火が付かず,機体は35〜40mだけ上昇してランチャからわずか50mほどの砂地に落下してしまった。航跡を見るために尾翼筒に付けた四塩化チタンが空気中の酸素と反応し,酸化チタンの噴煙を上げている。さあ大変,いつ火が付くか分からない。しかも機体が変な向きに海岸に転がっていると,火が付いたが最後,このロケットは実験班が避難している方へ飛んでくるかもしれない。 不気味な静観が続いた。やがて噴煙は収まった。そしてこの男,戸田康明の命を賭けての匍匐前進とあいなったのである。実はこのロケットの打上げ前,戸田は恒例により秋田銘酒1本と榊をランチャのそばに供えている。その願かけは,このベビーには通用しなかったらしい。実験班注視の中,戸田はロケットのそばでしばし点検をしていたが,点火器への導線を切断しアースさせた。そして「オーイ,もう大丈夫だぞーっ」と叫んだ。ワッと上がる歓声。実験班の面々が戸田とベビーロケットの周りに駆け寄り,2段目は回収された。と,そのとき,「かまぼこ小屋」の方から驚きの声が……。 「テレメータが送信を始めた!」
●瓜本の八艘飛び
![]() レーダーは,もう少しロケットが大きくなってからでしたが,明星電気の瓜本信二さんの有名な「義経の八艘飛び」という話があります。どういう話かといいますと,地上のレーダーアンテナは,飛んでいるロケットに搭載したレーダー発信器が発信する電波に追従しなければなりません。地上のレーダーアンテナが正常に作動するかどうかをチェックするため,発信器を移動してテストをしました。そのころは瓜本さんが発信機を抱えて走って,それをレーダーアンテナが追いかけたのです。地上の砂浜だけではなく,次は海の上はどうか,ということで海の上を船で移動し,それを追いかけるということもやりました。瓜本さんが,船から船へレーダーを抱えて飛び移って走るものだから,「義経の八艘飛び」です。(垣見) 意外性にあふれ,情熱に満ち,一つ一つの出来事への感激がとてつもなく大きかった,日本のロケットの草分けのころである。
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