No.276e
2004.3 号外

ISASニュース 2004.3 号外 No.276e 


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定年者に捧ぐ 

 dash 糸川英夫先生の考えから  


ペンシルロケットをみつめる糸川英夫先生

 定年制の根本にある考え方は,人生三分割論である。すなわち,学習を課題とする「教育期」(0〜20歳前後まで),学習や仕事を通じて社会に還元する「仕事期」(20歳前後〜定年まで),仕事から解放されて人生を楽しむことに専念する「老後期」(定年〜死ぬまで)の三つに分割して人生を生きようという思考である。筆者の意見では,これからの高齢化社会に対応するためには,市民側もこのような三分割論を抜本的に考え直すことが必要である。

 まず,人間を生物学的に考えてみよう。人類はその一生の中で形態的変化を行わない生物である。二本足歩行ができない赤ん坊のころの,ほんの1〜2年を除けば,人間は外見も行動能力も一生の間に大きく変化はしない。これとは対照的な生物が昆虫である。昆虫は幼虫,さなぎ,成虫とその一生を通じて変態を行う。形態も大きく変わるし,行動能力も大変動する。幼虫は地面をはうことしかできないし,さなぎは動くことすらできない。それに対して,成虫は自由に動くばかりか,空を飛ぶことすらできる。

 昆虫のような生物では,自然の摂理がその一生をいや応なく三分割している。しかし,人間は必ずしもそうではない。人生を教育期,仕事期,老後期の三つに分けることに,生態学的な根拠はなく,人工的な区別にすぎないのである。生態系としての人類は,その形態も性能も一生を経過する間に大きくは変わらない。変わるのは知識や経験などの内面である。老年になると経年効果によって,肉体的性能が多少下がる。しかし (中略) 知識や経験などはますます豊かになる。人類は昆虫ではないのが悲しいことかもしれない。しかし,それだけではマイナス思考だろう。老人は早く死んじまえということになる。

 もともと,学ぶこと,仕事をすること,人生を楽しむことの三つを,機械的に人生の三つの時期に分割することはどこから出てきたか。いくつになっても学ぶことは大切だし,働き盛りにも人生の楽しみは必要である。

(中略)

 就職と定年を境にして,人生を三段階に分ける現在の考え方は間違っているだろう。人間は死ぬまで同じ形態を保ち,能力を持っている。人間は死ぬまで働くことができる。定年制はこのような生物学的事実から見ると,まったく不合理な制度である。

 画家や彫刻家などの芸術家には,90歳100歳になっても日々技術が新しくなり,人間国宝になっている人も少なくない。人間は体力は衰えても,技術やそれを生かす知能は,衰えるどころか進歩していく。70歳になっても,80歳になっても,人間は進歩するという事実を,定年制は無視している。いまでも農村,山村に行けば,生きている限り社会的責任を果たすのが,人生の任務であると考えて地球貢献をしている人はたくさんいる。都市部の人だけが定年制で,いきなり社会的任務を取り上げられるのは,どう考えてもおかしい。

 では定年制がなかったら,人間はどのように生きることになるのだろうか

 結論から言うと,就職と定年で三つに区切られた人生の三つの要素,つまり学ぶこと,働くこと,楽しむことを,年齢によって分割するのではなく,1日24時間の中に分割する生き方なら未来がある。高齢化社会問題は,このような発想を導入することで,根本的に解決できるのである。たとえ1日数分であっても毎日何かを続ければ,必ず人間は進歩する。学ぶことに年齢は関係ない。

(中略)

 24時間の中に人間生活の三つの要素を入れることによって,人間は死ぬまで同じ生活を,同じ人生観で続けてゆくことが可能になる。80歳を超えても毎日新しい発見があり,毎年友人が増えていく人生は,本当に楽しいものである。定年制を否定する生き方は,特別な選ばれた人にだけ許されるようなものではない。考え方を変えれば誰にでも可能なのである。ぜひともチャレンジしていただきたい。

(『人類生存の大法則』糸川英夫) 



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