No.208
1998.7

ISASニュース 1998.7 No.208

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観光丸のご先祖様

磯崎 弘毅   


 日本ロケット協会は,1993年から宇宙旅行の研究を続けています1)。現在の構想は,「全長22m・離陸重量550トンの完全再使用型・単段宇宙船を地上200kmの軌道に打ち上げ,50人の乗客に3時間の宇宙観光旅行を楽しんでもらう。」というものです。運賃は1人200万円を目標にしています。 この宇宙旅行船は,研究の提唱者・長友信人教授によって,1995年に「観光丸」と命名されました。文明開化の先駆であった元祖の観光丸にあやかって,宇宙への夢を実現したい,という願いが込められています。




 元祖の観光丸は,1852年にアムステルダムの国立造船所で建造された,全長66m・排水量730トン・出力150hpの蒸気外輪船です。

 1855年にオランダ国王ウィレムIII世から徳川家定へ贈呈されて,わが国の蒸気船1号艦になりました。翌年「観光丸」と命名され,長崎・築地・佐賀・神戸の各港で,幕府海軍の練習艦として活躍しました。その訓練を通じて,勝海舟・榎本武揚などの逸材が輩出しました。もし観光丸がなかったら,2号艦「咸臨丸」による日米修好通商条約使節団の訪米は実現しなかったことでしょう。

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 1865年に「観光」と改名され,1876年に石川島でその生涯を閉じた観光丸は,再び現代に蘇ります。



 1988年に故国オランダのハウスデンフェロルメ造船所で復元された新しい観光丸は,現在ハウステンボス・長崎空港間に就航中です。私は1997年ISCOPSの帰途に乗船し,新旧観光丸の詳細記録 2) を入手することができました。


 元祖を「観光丸」と命名した人は,時の長崎海軍伝習所長であった,永井尚志(なおゆき,1816−1891)です3)。観光といえば,今の人は観光見物を連想しますが,尚志は,中国古典の易経にある「観国之光・・・」を引用したのです。外国の文化を観るための船という意味でしょうか。

 尚志は,最後の将軍徳川慶喜の若年寄として,1876年に大政奉還の建白書を起草したことで有名ですが,日本海軍の創設と 製鉄所・造船所の建設を推進した功績も忘れることができません。

 実は,私の父方の祖母磯崎かねは永井尚志の内孫でした。つまり,140年の歳月を経て4代目の子孫が,海洋と宇宙の違いこそあれ,同じ「観光丸」に関わることになったわけです。また,尚志の生家松平は私が住んでいる愛知県の在,そして養家永井は私が勤めている岐阜県の在でした。このような先祖をもったことを誇らしく思うとともに,不思議な因縁を感じます。

 将来宇宙旅行船が実現する時が来たら,ご先祖様に敬意を表して「観光丸二世」( KANKOH MARU Jr. )の名を捧げたいものです。

(日本ロケット協会会長,川崎重工業株式会社 技監 いそざき・こうき)

出典
1)日本ロケット協会  「観光丸」報告書
2)長崎オランダ村(株)発行 「観光丸」
3)城殿輝雄著 「伝記 永井玄蕃頭尚志」


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