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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第439号

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ISASメールマガジン   第439号       【 発行日− 13.02.19 】
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★こんにちは、山本です。

 春が近づいてきています。周期的に天気が崩れたり、空気中の湿度が増加しています。
そういえば、いつの間にかインフルエンザから花粉症へ話題が変わっていました。

 どちらもマスクを必要としているのには違いがないのですが

 今週は、宇宙飛翔工学研究系の川口淳一郎(かわぐち・じゅんいちろう)さんです。

── INDEX──────────────────────────────
★01:ささやかな幸せを運んでる
☆02:フェルミ・ガンマ宇宙線望遠鏡で宇宙線陽子の生成源特定
☆03:銀河宇宙線の加速の謎に土星探査機のデータで迫る
☆04:町田市・相模原市ライトダウンキャンペーン(3月11日)「まちだ・さがみはら 絆・創・光(ばん・そう・こう)」
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★01:ささやかな幸せを運んでる

 かつての宇宙研は、できると信じてやまない変人集団の巣窟でした。70年代、私が駒場キャンパスに暮らすようなった頃、新設工学56号館の玄関には、ロケットよろしく赤白に塗られた郵便ポストが置かれていました。

1970年に、ようやく初の人工衛星「おおすみ」が打ち上がったばかりで、1年に1回のペースで科学衛星が打ち上げられていて、1つ1つがお祭り騒ぎかのようだったと思います。世界に目を転ずれば、69年にはアポロ月着陸が行われ、すでにスペースシャトルの就航も秒読みでした。世界から隔絶されたかの空間が駒場にありました。


 1985年、満を時して、M-3SII型ロケットが登場します。1984年にようやく完成していた臼田64mアンテナとともに、ハレー彗星探査を目指して開発されたものでした。固体ロケットで惑星探査をするのか。おそらく、未だに、世界でも宇宙研だけが行えたことかもしれません。

「こうすればできる」の文化がこれを叶えたと思っています。自身を信じて行動することに何の疑問をもつ必要がなかった変人の集団がそこにありました。

第1号機打ち上げを前に、野村先生は、思わず
「こんなモノを作ってしまって....」
とつぶやかれたのを思い出します。

1985年6月、鶴田先生の主催で、小惑星サンプルリターン小研究会が開催されました。これが、はやぶさへとつながっていった出発点でした。


 1985年8月、PLANET-A「すいせい」を打ち上げるべく、私は内之浦にいました。射場から町へ降りる実験場の車中で、運転手さんがポツリ、「だめかもしれませんね」とつぶやいたのが忘れられません。

それは、目前にせまっていた打ち上げ日の天気のことではなく、日航123便の行方不明のことをさしていました。犠牲者に坂本九さんがおられました。日本が自信をもっていた時代。高度成長を示すかの元気のでる歌が多かったかもしれません。


 2003年、MUSES-C「はやぶさ」を打ち上げた時の壮行会で、誘われるようにある歌を歌いました。それが「見上げてごらん夜の星を」(注)。小さな星、それが、はやぶさの目指すターゲットだったからです。

「追いかけよう夢を」、それは、ひたむきに下向く努力ではなく、新しいものへの取り組み方が上向きであることを語っているように思います。私たちも、自らの信ずるところにしたがって行動すれば、きっとできるはず。これがMUSES-C計画だったと思います。


 ハレー彗星探査で始まった、M-3SIIシリーズは、まさに宇宙研の黄金期を築きました。

上杉先生がリードされ、5号機で打ち上げられた「ひてん」。我が国は世界で3番目に月に到達した国となりましたが、それだけではなく、その後のミッションの礎となる、スウィングバイという軌道操作や、航法・誘導技術などが育っていきました。

第8号機では、通産省がらみで、ドイツと共同する計画「EXPRESS」を行うことになりました。秋葉先生が音頭をとられました。どうして宇宙研がその片棒を担ぐのか、私はおそらよくわかっていなかったと思います。学者という、言ってみれば世間知らずが携わっていた宇宙開発だったのかもしれません。

長友先生は、有翼飛翔体の計画を切り出されておられましたが、ただ、私はまだ、真意をつかみかねていました。自称天才。諸君、天才が現れた。との自らを扱った記事を45号館2階に張り出しおられた、一流の奇人でもあられたと思います。「見えるものはみな過去のものである。」彼の口ぐせでした。

スペースシャトルは、1981年に就航しました。ちょうどそれを目前にしていた頃、長友先生は、HIMES構想を出されました。何と内之浦に滑走路を作って....という奇抜な計画でした。正直なところ、何を目的とされているか、私には理解できませんでした。

私は、ハレー彗星探査にどっぷり。実は、目の前にばかり目が行っていたのだと思います。どちらも、M-3SII-8もHIMESも、新たな展開を求める胎動だったと思います。

ロケットという輸送機、それはもう研究の対象ではない。
そして、そんな古いものを未だに信奉しているか?
それは宇宙研への警鐘だったと思います。


 M-3SII-8号機によるEXPRESS計画は、大きく予定軌道からはずれてしまい、失敗に終わりました。ロケットの姿勢制御という、まさに私が担当する部位に問題ありました。野村先生が調査委員会の代表をされていました。
「君たち、失敗したんだから、ちゃんと調査報告しなくちゃだめだよ。」
このことは、その後の私の宇宙開発への取り組みに、とんでもなく大きな教訓となって残りました。ありがたいことと思います。

同時に、この時、先輩方々から、多くの考え方を学びました。
「(理学ミッションではなかったので)、言ってみれば一番失敗してよかった機体であったね」
秋葉先生の言葉に救われた思いがしました。

東大の加藤寛一郎先生は、
「何が問題であったかは、担当者が一番よくわかっている」
と、深追いの議論を制していただきました。

松尾先生からは、調査委員会が始まるとき、
「これからしばらくは、後ろ向きの仕事が続くけれどな」
との言葉をいただきました。

本来、君の取り組むべきことは、前向きであるべきなんだよ、と。失敗があったからといって、やり方を保守に転じさせてはいけない。原因はわかっているじゃないか、それで縮むんじゃない。大いに励まされたと思います。


 大げさにいえば、これが日本の復活へ、そして世界をリードすることにつながるのだと思います。新政権は、日本復活を力説していますが、かつてと同じように、生産力を高めるだけの方法では、競争力の復活は望めません。このことに気づいているでしょうか。製造から創造に転換できなくてはならないことを。


 最近の日本は自信を失っています。追いつくことは簡単です。それは過去を追求すればよいことだからです。しかし、トップに立つには、「やれる理由」を探せなくてはなりません。

今、まさに宇宙基本計画が改訂され、先日は、北朝鮮、そして韓国がロケット、衛星を打ち上げました。

「ロケットで衛星を打ち上げる」こと。実は、改訂された宇宙基本計画には、まさに、それしか書かれていません。言うならば、北朝鮮、韓国を超えた計画は書かれていないのです。アジアで何番目かをねらう基本計画であってなるまい、と思うところです。


 自分たちを信じて、やれる理由を探して挑戦する。そうすることで、創造が生みだされ、世界初が実現されていくのです。
「ささやかな幸せ」が運ばれてくる。
坂本九は、そう歌った。日本の舵取りを間違わねば、と感じるものです。

(川口淳一郎、かわぐち・じゅんいちろう)

注:「見上げてごらん夜の星を」
  作詞・永 六輔/作曲・いずみたく/歌唱・坂本 九

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※