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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第432号

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ISASメ-ルマガジン   第432号       【 発行日− 13.01.01 】
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★明けましておめでとうございます。山本です。

 クリスマス寒波、年末寒波と続き、今冬は大雪に見舞われていますが、皆さんのところはどんな「お正月」でしょうか

 相模原は雪は積もっていませんが、例年より寒く感じる新年を迎えています。
(ただ、私が年を取っただけ、という声が聞こえてくる気がしますが……)

 相模原キャンパスの年明けは、恒例の「宇宙科学シンポジウム」が開催されます。

今年も、ISASとISASメールマガジンの応援ヨロシクお願いします。

 例年どおり新年の一番手は、ISASの先輩・中部博雄(なかべ・ひろお)さんです。

── INDEX──────────────────────────────
★01:ロケット昔話5(あの時の新聞記事)
☆02:相模原キャンパス見学 臨時休館のお知らせ
☆03:宇宙学校・ふくい (1月12日(土))
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★01:ロケット昔話5(あの時の新聞記事)

 内之浦で打ち上げられたロケットは380機を超えていますが、1960年から1980年の20年間はロケット打ち上げ失敗が続きました。これら不具合の原因を突き止め適正に処理してきた結果、「はやぶさ」の成功につながる技術を蓄積してきました。その間の出来事として、今回は糸川教授の実験場さがしから「おおすみ」打ち上げ以前のヒヤッとした実験失敗、内之浦のエピソードなどを拾ってみました。

 今回も内之浦で写真店を営んでおられる牧工氏から当時の南日本新聞(スクラップブック)をお借りしました。記事は字数の関係で編集していま す。また日付は新聞記載日を示しています。


■1960年12月10日:糸川博士が現地視察

 東大のロケット宇宙空間観測所の新設候補地に全国10数カ所選ばれ、9日糸川英夫博士は内之浦町の現地を視察した。現在、東大のロケット弾宇宙空間研究所(※編注)は秋田県にあり、高度200キロに及ぶ誘導弾ロケットを打ち上げ高層気象や宇宙観測を行っている。しかし年々技術の進歩で、ロケット弾を今以上に高度を上げるとソ連圏に達すると予想され、国際問題となる関係もあって新設することになった。現地調査を終え地元関係者と懇談した。

【補足】
・ちょっと有名な話を2つ紹介しましょう。

(1)内之浦が陸の孤島と悪口をたたかれていたころ、糸川教授が鹿屋で呼んだタクシーは「道が悪いので行きたくない」と断った。渋る運転手を助手席に座らせ、自らハンドルを握り調査に赴く、偉い先生を出迎えるはずの町長たちは、まさかと思って見過ごした。(南風録/2009.2.21)

(2)1960年秋、当時東大生研の糸川教授がやってきた。新しいロケット実験場探しだ。久木元町長が道案内し、長坪から辺塚まで歩いたが適地が見あたらない。あきらめて帰る途中、ロケット博士は県道沿いの長坪台地の茂みをわけ、小用すると「ここだ」と叫んでロケット基地が決まった。(南風録/1972.4.12)

・内之浦の池田荘で町長、町議員、漁協、婦人会、他有識者を集め実験場は軍事基地ではないことを説明し協力を求めました。内之浦の発展には実験場は不可欠であると久木元町長は協力を約束、ロケット打ち上げ時の発射音で家畜が驚き鶏は卵を産まなくなり、牛は暴れるのではないかと心配する声もあったようですが、久木元町長や婦人会長の田中キミさんは精力的に各カ所をまわり純粋に科学研究の実験場である事を説明し、理解を広めていったそうです。


■1961年4月12日:実験場内之浦に本決まり

 地元は大喜び、久木元町長は射場決定に、私自身の喜びもさることながら地元地区民の喜びは大変でしょう、地元では整地作業も手伝うと大変な熱の入れようです。実験場に決まった長坪地区は20戸100人の大半が農家で電灯も無いへき地、今度の実験場建設で電灯がつくなど、地域開発に大きく役立つと思う。


■1961年4月14日:猿ロケット打ち上げへ

 名古屋大学環境医学研究所は東大生産技術研究所の依頼でロケット打ち上げ計画の生物部門を担当研究していたが、今秋打ち上げ予定のラムダロケットにサルを乗せる計画が出来上がった。同研究所でははじめネズミを考えていたが、ロケット内部の生物部門にかなりのスペースがあることがわかったので、サルを乗せることにし、すでに愛知県犬山市のモンキーセンターから数匹のサルを持ち込んで予備診断を始めている。

 今度割り当てられたスペースは直径20センチ、長さ30センチの円筒、飛行中カプセルは摩擦熱で200度ぐらいになるが、断熱装置で内部は4度(?)前後に調整され酸素も十分はいるしくみ。実験に使われるのは1歳未満のメスのアカゲザル、これから秋までの半年間、同研究室で条件反射を利用してスイッチを押したり、ペダルを踏む訓練など高温低圧室で各種テストを受ける。打ち上げの際は心電図、脳波などの変化を電波で刻々地上に送るが、今の計画では回収は不能である。

 東大生研では新しく決まった内之浦の発射施設の完成を待って、今秋ごろラムダロケットで打ち上げる予定である。

【補足】  かなり具体的に計画が進んでいたようですが、回収装置もないロケットで打ち上げを実施していたらと、想像するだけでサルがかわいそうでたまらない。よくぞ実験を断念していただき安堵しています。


■1962年6月11日:ロケット基地建設に婦人会員ら協力

 労務者不足で観測所建設工事の遅れが心配されていたが、田中キミ婦人会長ら婦人会員46名がシャベルを手に側溝のコンクリート打ちに汗を流した。

【補足】
 実験場探しに糸川教授が内之浦を訪れてから婦人会は現地調査団におはぎの差し入れや開所式の200人分の弁当づくり、来訪者の接待、建設工事の 手伝い、民宿の手配、54名の調理師免許取得、実験場内に売店を設けると共に、たばこの販売権をとり実験班の便宜をはかるなど婦人会の献身的な協 力のおかげで宇宙開発は素晴らしい成果を上げることができたと思います。


■1962年11月18日:観測所を町ぐるみで公園化

 観測所に桜、熱帯植物、四季の草花、カン木を植え将来は年次計画で南国の観測所にふさわしい植物園にする。12月初旬に30周年記念に盛大な植 樹祭も行う。

【補足】
 1963年2月24日の植樹祭は桜200本が植えられました。その後、アネモネ、キンセンカ、ハボタンなど900本以上、他にフェニックス、カイコウズなどが植えられ、初詣、花見、カブトムシ取り、見学と町民に親しまれる観測所となりました。

小学生グループから老人会までの町民が希望を託し汗を流して植えられた数多くの樹木、今はどうなっているのでしょうか。


■1962年12月29日:(黒ヂョカ)見学者の苦肉の策

 このほど長坪の第2ロケット見学所(主に報道班用)に、同郡大崎町の某農機具店の小型車がつき、中から旧陸軍の“憲兵”の腕章をつけた34、5歳の男が降りてきた。すすけた腕章には憲兵の字の下にロケットと書いてあり、ジャンパーに無帽といういでたち、しばらく見学席の入り口当たりをうろついていたが、打ち上げ時刻近くになる頃、たまりかねたように第2見学所めがけて登り始めた。あっけにとられて見送る警備員をしり目に、一気に見学席まで登りつめ、K-8-11号機の打ち上げを見学した。

 これを見ていた久木元町長、近くで見たい一心で憲兵の腕章を工面して来たのだろうが、第二見学所を一般にも開放せにゃいかんと遠来のマニアにしきりに感心していた。


■1966年3月5日:L-3H-1打ち上げ  「3段目搭載機器故障」・・・航空機空中分解・・・

 午後1時50分、3段式ロケット、ラムダ3H型1号機を打ち上げた。1,2段は正常に飛行、銀河X線、電離層の観測を行ったが、メインロケットは搭載機器の故障のため明確な飛行データは地上から得ることが出来なかった。

【補足】
 メインロケットの海面落下予想時間は飛翔が正常であれば、計算上午後2時18分頃になります。

 その頃、香港に向かっていた英国海外航空会社(BOAC)911便ボーイング07-436が羽田空港を離陸して15分後、富士山上空で空中分解し太郎坊付近の森林に墜落しました。

その時間が午後2時15分頃、折しも、L-3H-1の2段目ロケットがスピン不足であったことからメインロケットの飛翔は予定軌道を外れていました。そこでメインの落下時間が911便の空中分解時間と一致するという想定の下で、メインロケット或いは頭部が911便にぶつかったのではないかという疑惑が一部で持たれました。

 しかし、2段目ロケットまでの飛行データは正確に得られていることから、メインロケットの軌道が外れたとしても富士山方向に向かうことはありえないことです。しかも、内之浦から富士山までは約1400キロ、ロケットの水平飛行距離は2000キロ以上ですので911便に遭遇することは無理です。それにしても、ちょっとドキッとさせられた打ち上げでした。

 ちなみに911便の事故原因は、富士山上空に発生する山岳波という特殊な気流に巻き込まれ、機体に設計強度を上回る7.5Gもの力がかかり、空中分解したと見られています。1962年にも4機編隊の自衛隊機が同様の現象で2機が墜落しています。


■1969年1月16日:L-3H-4打ち上げ 「ヒヤリ2漁船」

 打ち上げ後11秒で補助ブースタ分離直後、機体は急に西側に向きを変え、さらに上空で西と東に頭を振って正しく飛ばず、3段目のメインロケットは30分以上飛ぶはずが、1分46秒で内之浦沖7キロの海上に落下した。

 そのメインロケットはらせん状になって落下してきた。その数キロ離れた地点(制限海域外)には漁船が2集、ロケットはその2集の間に落ちた。まったく予想外のところだったわけで、実験班もびっくりした表情を見せていた。

【補足】
原因:発射上下角度を高く設定する必要から、従来の補助ブースタ分離時間X+9秒にすると落下点が海岸線に落下する恐れがあるとして、X+11秒に変更しましたが、結果として動圧最大地点で分離衝撃が加わったことで機体が破壊しました。

 上杉教授は当時を振り返り、「ある一面だけで物事を見て判断してはいけないという、システム工学基本中の基本を教える高価な教訓でした」と。


■1969年2月13日:婦人会が千羽鶴で励ます

 牧富士子会長ら18人の婦人達がコントロールセンターを訪れ、居合わせた野村、平尾、斉藤、秋葉、林さんらスタッフに千羽鶴を手渡し、「どうぞ 科学衛星の打ち上げ実験を成功させてください」と婦人達の期待と励ましの気持ちを伝えた。折り鶴は4段式のラムダロケットに似せて、4つの束に分 け1メートル30センチほどの長さ、中には「祈る成功L-4S」と書いてある。

【補足】  L-4S-1〜3、L-3H-1,4と失敗が続いていた中、婦人会がなんとか実験班を励ましたいと千羽鶴を贈ることにしたそうです。以後衛星打ち上げ実験毎に千羽鶴が贈られるようになりました。

どれだけ実験班は元気づけられたことか。


■1969年9月27日:K-10C-2 「発射直前に暴発」

 26日午前11時の打ち上げに向けて準備は着々と進んでいた。ところが14分前に頭部にある姿勢制御装置の推進剤となる過酸化水素の噴射テストを行っていた時、1段目と2段目の間に漏れ過熱現象を起こした。勢いよくシューッという音をたて白い噴霧状のガスは噴出した。

 異常現象を認めた実験班はただちに噴出口を全開、過酸化水素を放出しはじめた。ところが発射3分前に加熱した液は火災を起こして2段目ロケット の推薬に点火してしまい、ごう音を残して発射台を飛び出し雲間に消えた。

 発射と切断のショックで取り残された1段目ロケットは発射台の東側にゴロリと転がり落ちた。

 消火班の消防車2台、約20人が直ちに出動、暴発の恐れのある1段目ロケットの頭部に約40分も放水をつづけた。その後ロケットは安全に処理された。

【補足】
・この事故をつぶさに8ミリカメラに納めた元ランチャー班の平田安弘氏は白いガス状の噴出物を見て、とっさに7年前(1962年5月25日)道川海岸の実験場でK-8-10点火直後にロケットが爆発した大事故を思い出したそうです。

 急いで射場に向かいズームアップでロケットを撮りました。様子をうかがい再度ロケットにカメラを向けたとたん2段目ロケットが点火しました。 スゴイ音です。K-8-10の強烈なシーンが再び頭に浮かびます。落下した1段目ロケットはちょうど平田氏達ランチャー班が待避していた方向(当時は計器センター)に向いています。

「ヤバイ!」、本部から「頭を冷やしてください」と繰り返し放送していましたが、それは、まず「実験班の頭を冷やし、冷静になれ」、そして「ロケットの頭部を冷やし、点火を阻止しろ」と言うことだったのでしょう。

「今思い出しても冷や汗が流れる」そうです。

・原因:姿勢制御系チェックを行うために元弁(火薬式)を開けたとたん過酸化水素が下流の配管にウォータハンマー現象により高圧を生じ接手から漏れたと見られています。

(中部博雄、なかべ・ひろお)

編注:当時の新聞記事のまま。正式名称は、秋田ロケット実験場


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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※