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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第294号

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ISASメールマガジン   第294号       【 発行日− 10.05.11 】
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★こんにちは、山本です。

 連休明けの相模原キャンパスは、ダイアルイン方式からIP電話に変更されました。職員は連休前に電話機と取扱説明書を渡されて、6日までに各自設定をするように言われてはいたのですが、電話番号の登録が面倒で4件くらいで挫折してしまいました。

 出勤してすぐ 後悔が待っていました。午前中に会議と打ち合わせがあり、今までの調子で電話機を持たずに部屋を留守にしました。戻ってくると不在着信が何件も! 電話機に登録してないので、誰からの電話かサッパリ分からない。新しい電話番号簿を見ても、
「載ってない!」
誰からの電話か 未だに不明です。

 今週は、「はやぶさ」プロジェクトマネージャの川口淳一郎(かわぐち・じゅんいちろう)さんです。

── INDEX──────────────────────────────
★01:「はやぶさ」7歳の誕生日にあたって
☆02:「あかつき」行ってらっしゃい観望会のお知らせ
☆03:A&A誌特集号に「あかり」の成果
☆04:今週のはやぶさ君 と 「はやぶさ」軌道情報
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★01:「はやぶさ」7歳の誕生日にあたって

 思えば早いものです。「はやぶさ」が打ち上がったのが、ついこの前のような気がします。

 「はやぶさ」は、開発コードをMUSES-Cといいます。MUSESは、音楽の女神の名前で amusement の語源ともなっている言葉で、Muロケットによる工学(技術)実験衛星のシリーズを示す名前として、上杉先生を中心に名付けられたものです。MUSES-Aは、あの、「ひてん」探査機、MUSES-Bは、VLBI観測の「はるか」で、はやぶさは、その第3機目という位置づけです。MUSES-Cの開発開始から打上げまでに7年間、そして飛行開始からもう7年間で、実際のプロジェクトの期間としては、14年間に及びます。関係された方々には、感謝のおもいでいっぱいです。


 このMUSES-Cは、文科省の宇宙科学研究所としては最後の打上げでした。2003年5月9日13時29分、快晴でした。とても美しい打上げでした。
新しいウィンドウが開きます http://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa/movie/data03.html にその映像を見ることができます。
2000年3月にASTRO-E衛星を載せたM-V-4号機がトラブルに見舞われる事故があり、MUSES-Cの打上げは、初のリトライだったわけで、探査機側のみならず、大変なプレッシャでした。


 当時、5月の打上げは、漁協との合意された時期の中にはなく、的川先生をはじめ関係の方々の非常に大きな努力で、この打上げウィンドウ(打上げ可能期間)を利用できることになったことを、ぜひ述べさせていただきたいと思います。漁協の方々にも意義をよくご理解いただけたことは大変ありがたいことでした。同じこの5月の打上げウィンドウを、「あかつき」、IKAROSが使うことになったのも奇遇ではありますが、「はやぶさ」が露払いを努めたかなと思います。MUSES-Cには、2002年12月と、この2003年5月の2つの打上げウィンドウがありました。M-Vロケット系の準備に時間を要したことのほか、MUSES-C自体にも開発の遅れが出ていて、やむなく背水の陣ともいうべき、この5月の機会に賭けたわけです。地球スウィングバイまでの時間が、2002年12月だと1年半確保されていて、マージンのある設定だっただけに、あと1年しかないこのウィンドウで打ち上げることになったことは、じわりとしたプレッシャでした。

 しかしふりかえってみると、新規技術要素の塊である、このMUSES-Cが、打上げ機会が限定される惑星探査機として期日に間に合って開発を終えられたことは幸運といいましょうか、奇跡的だったかもしれません。関係のイオンエンジンや自律姿勢軌道制御、サンプラーホーン、そして回収カプセルに携われた方々の大きな努力の方々の賜物だったと思います。この先駆的なミッションの開発が遂げられて、こうして飛行も最終段階にあることは、50年におよぶ宇宙航空研究所、宇宙科学研究所の土壌、そしてともに技術開発を支えて培ってこられたメーカの方々がともに育んだ成果なのだと思います。私たちもそういった方々の一部としてたまたまこの時期に携わっているといえるわけです。そういう意味では大変にありがたいことで、このめぐり合わせを素直に喜びたいという気持ちでいます。


 M-Vは、その額面の輸送能力からすると、MUSES-Cを所定の軌道には投入できないはずですが、このM-V-5号機では、第3段目をあえてパーキング軌道に載せず、第4段目を大型化してM-Vロケットの性能を限界まで引き出していました。第4段ロケットモータKM-V2は、推進薬量が3トンを超えていて、M-3SII型機でいえば、主推進ステージである第3段ロケットモータの同クラスにあたる、巨大キックモータでした。加えてその第4段モータに新規に伸展ノズルを装備した他、第2段ロケットモータも初飛行となる新型のM25に切り換えられ、M-Vロケットにとっても、第2世代だったわけです。宇宙研らしいといえるかもしれませんが、これらすべてが正規に機能しなかったらMUSES-Cの軌道投入ができないわけで、ロケットから搭載探査機まで、まさにてんこ盛りの状態でした。


 M-V-4号機のトラブルがあったとはいえ、実は、復帰第1号機のM-V-5号機でMUSES-Cを打上げられるかは微妙な時期もありました。惑星探査というもの、その打上げウィンドウは、離散的にしか存在しません。一旦機会を逃すと、次の機会は容易には得られないわけです。加えて、サンプルリターンが可能な小天体は、かりにスペースシャトルで打ち上げたとしても、そんなに数は多くなく、おそらく当時は数個しかなかったと思います。今でも事情は同じです。
M-V-4号機の後、M-Vロケットへの改修・対策が議論される中、M-V-5号機で打ち上げる衛星、探査機は何にすべきか? という議論がありました。MUSES-Cはすでに設計を完了し製作中だったため、候補天体のよほど良いめぐり合わせに恵まれないかぎり、MUSES-Cは上げられず、お蔵入りするところでした。1998SF36についても、残念ながら、要求される打上げエネルギーが高く、そのまま同じ方策では打上げ不可能でした。苦心の末、地球との同期軌道を介してイオンエンジンで加速していく新方策を考えつくことができ、今日の「はやぶさ」の飛行が実現されているわけです。
M-V-5号機で打ち上げると決まった後、この工夫をそれまでの4大技術実証要素に加えて、5大技術要素として掲げてきています。これはいわばまったくの幸運です。ただ、NASAが我々の遅れをみて、短期間でサンプルリターンを先行してしまうのではないかという観測や懸念もあり、安閑としては居られない状況がありました。LUNAR-A計画を進めておられた水谷先生が、
「そうか、(アイディアを)考えついちゃったんだから..(MUSES-Cが)先でいいね」
と述べられて、MUSES-C打上げを優先することにご理解をいただきました。関係の方々のご理解がなければ、極端にいえば、まだ打ち上がっていなかったかもしれません。


 私自身、M-3SII、M-Vロケットに従事してきていたため、打上げには慣れていたはずでしたが、34mアンテナ局舎内で探査機の状態をみながら迎える打上げは初めてで、非常に不安な心境でした。衛星、探査機の打上げは「入学試験のようなもの」と言われた先生もおられましたが、探査機が生まれるか否か、自身に何もできることがない状況なのですから、まるで死刑台 にでものぼるような心境でいました。

 探査機搭載のXバンド送信機は、完全に真空状態になってから起動される予定で、一同ロケットが内之浦の視界から消えてしばらく沈黙を迎えました。誰かが、「DSNから入感」と声を上げ、打上げからわずか20分後には、探査機からのテレメータを34m局舎で直に確認することができました。これは率直なところ驚きでした。探査機は太陽電池を展開し、太陽捕捉を完了しなくてはなりませんでしたが、それらの経緯もみな打上げ後まもなく確認できていました。想定通りではありながらも、1985年の「さきがけ」、「すいせい」では、テレメータ情報は約10時間後に初めて確認しただけに隔世の感がありました。

 あまり知られていなかったことかもしれませんが、MUSES-Cは、太陽電池をたたんだ状態では、+Z軸周りが中間軸であって、原理的にスピンを維持できない形態で、したがって、自律的に太陽捕捉を行わなくてはいけなかったわけです。これが順調に実施できたことが何よりもの安堵でした。実は、太陽電池を広げた状態では、+Z軸まわりが最大軸になっていてスピン安定な形状で、これが活きて2006年の通信復旧が実現したのですから、おもしろいものです。


はやぶさの命名

 当時、打上げオペレーションに参加する方を中心に投票を行い、複数の候補を出して、その中から宇宙研内の協議によって、名前を選抜していました。

 「はやぶさ」と並んで、というか、「はやぶさ」という名をむしろしのぎ気味だった候補に、ATOM(アトム)という名がありました。的川先生を中心に組織票が投じられていた案で、この名は、ごぞんじアニメの名称ではありますが、Asteroid Take-Out Mission の頭文字という奇抜でユニークな案でした。
「はやぶさ」は、それに対抗して?上杉先生と私が旗を振って出した案です。MUSES-C探査機の試料採取は、1秒ほどの間に着地と離陸(Touch and Go)を行って実施されるものだったので、その獲物を捕獲する様子から、「はやぶさ」とあてた案でした。協議の中で、的川先生が、
「最近の科学衛星は、「はるか」とかおとなしい感じの名前や3文字の名前が多いので、濁点も入った勇壮な「はやぶさ」もいいね」
とおっしゃっていただき、「はやぶさ」に決まったというのが経緯です。最初がHで始まると海外で読まれるときに、たとえば「あやびゅさ」になる難点にも気づいてはいましたが、関係の方々からも賛同を得て、今日の名前となっています。もちろん、その昔、東京ー西鹿児島を走った「特急はやぶさ」とか、鹿児島県の地名であり「隼人」にもちなんだ面もあります。漢字で書くと、「はやぶさ(隼)」という字は、下にサンプラホーンが伸びていて、上にハイゲインアンテナがあり、ちょっと上下の位置は違うものの太陽電池も横に張り出していて、漢字1字をみても大変探査機らしい名だと、私は感じています。


 「はやぶさ」は、同時に、糸川博士が設計を担当した軍用機の名称でもあります。よく、小惑星の名前がイトカワであるから、探査機を「はやぶさ」に命名したのではないかと言われますが、そうではありません。打上げ時には、対象となったこの小惑星は1998SF36という識別名だけが与えられていました。その命名権を発見者である米国LINEAR計画グループからゆずり受けて、打上げ後しばらくしてから、イトカワと名付けたのが経緯です。
もちろん、命名権を得て、ただちに、「イトカワ」だ、というようには、経緯は簡単ではありませんでした。まず国際天文連盟(IAU)の基本方針は、できるだけ神様の名前をつけるべきとかで、たとえば日本書紀の神様の名まであがってくる議論もあったりしたわけです。その経緯の中で、小惑星1998SF36に日本のロケット開発の父である故糸川英夫博士の名前を付けてもらうよう、LINEARを通じて国際天文学連合に提案し、2003年8月に承認され「ITOKAWA(糸川)」と正式に命名されました。
意外に知られていないかもしれませんが、それを知っていたかのように、糸川博士が生んだ、1970年に打ち上げられた、我が国初の人工衛星「おおすみ」が33年の寿命を全うして、2003年8月2日落下しています。2003年10月のJAXA発足前に宇宙科学研究所としての1つの時代の幕が引かれたといえるでしょうか。偶然ではありますが、糸川博士の生んだ「おおすみ」が任務を終え、代わってこの「はやぶさ」が、イトカワを訪ねる任務に就いたことも深い関係を示す感慨深いエピソードです。なにはともあれ、「はやぶさ」がそのルーツをたどるシナリオ(「はやぶさ」が行くイトカワを訪ねる旅)に落ち着いたことは、さらにチームに志気を与えるものでした。


 打上げからまもなくして、2003年6月には、「はやぶさ」の初期運用中ではありながらも、「のぞみ」の第2回目の地球スウィングバイがあり、2003年暮れの火星到着を目指して飛行させていて、2つの惑星探査機を同時に運用していた時期がありました。今年2010年にも、「あかつき」、IKAROS、そして「はやぶさ」と3つの探査機の同時運用時期を迎えましたが、これも、奇妙にも2003年とダブって映るところです。


 長くなりましたが、これが「はやぶさ」の最後の誕生日になるのだ、という思いから打上げ時を回想させていただきました。「はやぶさ」には、打上げ以降、大変な辛苦を課して来ました。彼自身こそが、数多くの指令にも、けなげに応えてくれたおかげで、今日を迎えられたものと思います。

 新たな将来を産んでもらうためにも、我々とともに、「はやぶさ」にも、もう少しがんばってもらいたい....と思うところです。最後は無理をせずに、とは思いつつ。

(川口淳一郎、かわぐち・じゅんいちろう)


はやぶさ特設サイト:
新しいウィンドウが開きます http://hayabusa.jaxa.jp/

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※