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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第259号

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ISASメールマガジン   第259号       【 発行日− 09.09.08 】
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★こんにちは、山本です。

 9月にはいって、急に秋めいてきました。寝苦しかった熱帯夜は、ウソだったように過去のことになってしまい、最近の話題は、専らインフルエンザのことばかり。秋を通り越して冬がやってきたようです。

 今週は、宇宙の電池屋こと宇宙探査工学研究系の曽根理嗣(そね・よしつぐ)さんです。

── INDEX──────────────────────────────
★01:宇宙の電池屋 ー読書感想文ー
☆02:宇宙学校・くしろ【釧路市こども遊学館】
☆03:今週のはやぶさ君
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★01:宇宙の電池屋 ー読書感想文ー

 家内と、喧嘩した。

 翌日、家内が携帯電話の待ち受け画面を見せてくれた。そこには身長18mの白い巨人が、夕日を背に写っていた。
「いいでしょ」
「・・・・・・」
「うらやましい?」
「・・・・・・、こんなの興味ないって言ってたじゃん。」
「興味ないよ」
「・・・・・・・?」
「欲しい?」
「・・・・・・!?」
「あげない」
「(ちょっと待てい!)」


 初夏の某日、僕は同僚たちとともに訓練のため、とある大陸の空港に降り立った。僕が子供のころ、スペースノイドの独立を賭けたかの大戦の中でスペースコロニーの一部は、正にこの町を直撃した。僕は思わず空を仰ぎ見てつぶやいた。
「大丈夫だ、ソラは落ちてこない。」
早く移動したほうが良い。僕たちはせわしく飛行機を乗り継ぎ、更に大陸の奥地を目指して進んだ。

 帰国後、噂を聞いた。ヤツが「お台場」に立ったという。まさか・・・・。

 ちょうど、今すすめている研究成果を発表する機会があった。場所は東京のお台場にある国際交流センター。ユリカモメに揺られて会場に向かう道すがら「ヤツ」は立っていた。ヤツが初めて人工の大地に立つ姿を見たのは30年以上前だと思う。当時、僕はテレビを通してその勇士を見た。

 こんな職業についていながら極めて恥ずかしながら、ヤツが立っている姿を目の当たりにするのは初めてだった。首都を背にして林から上半身を浮き立たせたその姿は驚くほど風景になじんでいた。成果発表が終わった後、僕は一目、その姿をしっかりと見たくて、近くまで行ってみることにした。

 その日は、たまたまヤツを間近に見てもらうイベントのプレオープン(?)のセレモニーがある日で、林の中の小道まで警備が厳重だった。

 唐突に呼び止められた。
「関係者の方ですか?パスをお持ちでしょうか?」
「・・・・う〜ん、宇宙関係といえば関係者かなあ・・・・、社員証とか見せたら、通れたりして・・・・・。」
しかし、そもそも私の顔を知らないとなると・・・・そういえばヤツの搭載艦のクルーのほとんどは、現地任用の若き兵士だったことを思い出した。恥をかかせてはいけない。社員証を提示するのは、やめよう。
「すみません、また、出直してきます。」
僕は、頭を掻きながら、そそくさとその場を離れた。

 後日、子供を伴って、再度「お台場」に行った。連邦軍もなかなかサービスが良い。子供(&子供の心をもった大人)たちにヤツに触れる機会を提供していた。我が子は敢えて口に出さないが、きっと触りたいに違いない。仕方がないので、父は率先して並んだ。子供がヤツの足に触れるのを見届けて、ついでに僕も触ってみた。ヤツの開発には材料の革新的進歩が不可欠だったと聞く。確か、ガンタリウムとか言ったか。直に触るのは初めてだった。

 触ってみて驚いた。ガンタリウムの感触はまるでプラスチックのようだった。
「なんだプラスチックだよ、これ!」
と大きな声で笑う人がいた。
「違う!これはガンタリウムだ。」
金属であるはずの素材をここまでの質感になるまで結晶成長を制御できないと真の材料の軽量化はできないということか。電池屋として、材料屋の努力への畏敬の念と強いインスピレーションを感じた。

 夕日を背に、彼は、周囲を睥睨するように少しだけ首を動かした。おそらく動力系や関節を冷却しているせいだろう、スチーム音とともに大量の水滴が落ちてきた。
「お父さん、次は歩かせて欲しいね。」
「馬鹿だなあ、歩けるに決まっているだろう。でも、こんな人ごみの中で歩かせたら危ないじゃないか。そういうのを、業界では危機管理って言うんだ。」
ニヤける息子。
「お父さんって、夢があって、いいねえ〜〜。」

 なんだ、その物の分かったような言い方は! 息子はスタスタと前を歩く。せっかくの機会だ、ゆっくり見ておけよ。そんなに先を歩くんじゃあない。これじゃあお前がお父さんを引率しているようじゃないか!だいたいお前の父が夢を持たない男だったら、母さんは父さんと結婚しなかっただろうし、そもそもお前は存在すらしていない!

 ヤツにもきちんと感謝しろよ!

 僕らはヤグラの上からヤツを背景に家族で記念撮影をしてもらった。夕日を背に、ヤツは悠々しかった。カシャッと音がした。家内が携帯で写真をとっていた。(しっかりした写真を撮ったんだから、いまさら携帯で写真を撮らなくても良いのに。何しているんだ?)

 子供と一緒に科学技術の先端に触れながら、自分が小学生の頃を思い出した。久しぶりに読書感想文が書きたくなった。話は宇宙飛行士を目指した兄弟の物語。宇宙物には珍しく、戦争が絡まない話。弟は一足先に宇宙飛行士になって 月にいる。兄は遅れて宇宙飛行士を目指す。僕は次男だけど「お兄ちゃん」に、深く共感しています。


 拝啓 「お兄ちゃん」へ
本当ならその名をストレートに呼びたいところ、諸事事情を考慮して、この場は「お兄ちゃん」と呼びます。同じ組織の一員となったことだし、許してくれ。(「お兄ちゃん」で怒らないでね。ちなみに僕は同期からは「オヤジ」と呼ば れてきた。親近感ってヤツですよ。)

 君の体験している有人宇宙探査に向けての話は、(毎週木曜日に)欠かさず目を通しています。否、実は一時、どうしても読めない時期がありました。去年の今頃、僕はしばらく君の話をフォローするのを止めた。ごめんね。でも、君の宇宙飛行士選抜の体験はとても生々しくて読むのが辛かったし、早々に選抜から落ちた僕には現実を受け止め切れない自分を見るのが怖かった。
兎も角も、宇宙飛行士への選抜、おめでとう。同じJAXAの職員に任命されたこと、一緒に仕事ができる時が楽しみです。

 さて、新人研修、お疲れ様。大変だったでしょう。僕たちがNASDAの職員になったときのことをつくづく思い出しました。その頃、本社は浜松町の世界貿易センタービルに入っていました。入社早々にエレベータで毛利宇宙飛行士と一緒になったとき、自分が宇宙開発事業団に入社したことを強く意識した。そんなことにもあの頃はドキドキしていた。入社後の座学はある種の訓練かと思わせるほど、社会人最初の試練だった。僕は同期の中では年寄りだったので、社員番号が若く、幸せなことに最前列での座学だった。よく声が通らない方の話しも良く聞こえた。あまりに熱がこもっていて凄まじい勢いで唾を吹き飛ばし、興奮の余りに白目を剥きつつ話をする方もいた。諸先輩方の個性に触れながら、宇宙開発にむけた「人間」の努力を感じたのを覚えています。

 昨年の今頃、僕たちは同じ空間にいたんですね。そこを抜きん出た君が本当にうらやましい。ただ、夢が現実となって仕事になった瞬間、そこに横たわるものは日常であり、時としてそれが追い求めていた夢や希望の姿であることを忘れてしまう。

 僕の同期で、君よりも10年早く宇宙飛行士候補に選抜された女性も実は普通の女性で、子育てと仕事の両立とか、出張の疲れとか、日常的に苦労していることと思います。そんな彼女も、10年間の下積みの訓練を経て、もうじき飛びます。実り多いフライトになって欲しい。兎に角、無事に帰ってきて欲しい。

 彼女が候補者に選抜された直後に同期でお祝いの飲み会を開いたとき、彼女と話をして余りの現実的な話に驚かされた記憶があります。確か、(今はどうか知りませんが)宇宙飛行士が宇宙に行くとき、出張申請書を管理職に提出しているとか聞いた気がします。(本当かどうかは分かりません。)「えっ」と驚く現実がまっているのでしょうが、どうか気持ちをくじけさせること無く、頑張ってください。芝刈り一つだって、ローバの乗車になぞらえることのできる君のことだから、信じる道を進んでいた頃のけっして忘れがたい思いを、大切にしてくれるでしょう。

 それにしても、君が出会った人たちの様子や君の体験談は、つくづく親近感が沸く。この間、家に帰ったら、子供たちが紙粘土で作った「はやぶさ君」と「チキュウ」が待っていた。妹が「チキュウ」を持って、「はやぶさ君」を持ったお兄ちゃんから「キャー」って叫びながら逃げていた。
「待って〜、チキュウ〜!カプセル落とすから〜。」(ってお前達さあ・・・)

 君がアメリカで出会った子も、ボールを月と地球にみたてて走って遊んでいたね。イメージがダブって、面白かったなあ。まあJAXAの家族って、それに近いものがあると思うようよ。(我が家だけなのかなあ・・・。)

 そうそう「はやぶさ君」といえば、川原隊長の指揮のもと、砂漠での「はやぶさ」カプセル回収訓練に参加してきた。赤土の大地の只中でパイプ椅子に座りながら、凍える思いでの訓練でした。訓練の様子は川原隊長が紹介してくれましたが、隊員である僕としては肉体的にかなり鍛えられました。真っ暗闇の中で一人、小さな明かりを頼りにアンテナの前に座っていたら、どこからともなく音楽が聞こえてきた。

ソーラーソーミー・ソーラーソ(休符)
・ラーラーソーミー・ソーラーソー(休符)・・・

 竹笛の音のような音楽だった。僕は、歌はシャウトだけど、旋律を聞き取るのには自信がある。偶然とは思えない、きれいな旋律だ。ヤバイ。
「うそだ・・ここは砂漠の真ん中で、人の住んでいるところは地平の彼方まで・ない。」
「聞こえない・聞こえない・聞こえない・聞こえない・・(心の中でのリフレイン)」
僕は暗闇のなか、ひたすら自分に言い聞かせた。仲間が様子を見に来てくれたとき、彼は顔をこわばらせて言った。
「曽根さん、笛の音が聞こえません?」
「・・・・・えっと、・・・やっぱり?」
やばい、冷静にならなきゃ。う〜ん・・・。二人で落ち着いて考えた。そうか、アンテナの穴が共鳴して、笛の音に聞こえるんだ。そうか、そうだよね。そうに決まっているじゃあないか、アハハハハ・・・・。

 真っ赤な大地には多肉植物や潅木が生えていて、「はえ」やその他の小動物がたくましく生きていた。(地球ってすごいなあ。)

 僕が子供の頃、片道14万8千光年の旅の末、人類を救った人たちがいた。あの旅のすごさは、彼らが地球に帰ってきたことにこそあると感じていた。第二次世界大戦の中で、戦艦大和は片道分の燃料で沖縄に旅立ったことは知っていた。満身創痍になりながらも艱難辛苦を乗り越えて帰還を果たしたことに、子供ながらに凄まじさを感じていたように思う。

 片道14万8千光年、往復29万6千光年。掛け算を知らない子供たちでも、この数字のペアーは知っていた。

 夜、砂漠の只中にたたずみ、星を見た。鳥肌が立つほどの星の数だった。「はやぶさ」の旅は、最後には往復何億キロを数えることになるのだろう。

 訓練を通して個人的にバリバリ感動したのは訓練用の模擬カプセルからのビーコンを捕らえた時だった。
「そうだ、この信号を、来年は絶対にツカマエル!」

 しびれる思いが体を突き抜けた。はやぶさ君の旅には楽観できないことのなんと多いことか。でも、やれることは、兎に角、全部やっておこう。はやぶさ帰還まで「残された時間は1年、あと1年しかない。」そうして、その時、その場にいられたら、
「きっと、絶対、メチャメチャ感動してみせる!」

 真っ赤な大地の写真をとった。これで草が生えていなかったら
「火星だよ」
って言っても
「信じてもらえるんじゃあ、ないかなあ。」
草の無いところを選んで、足跡の写真を撮った。
題して「人類、火星に立つ!」とか、・・・・・・駄目かなあ。

 そんな感慨に浸っていたらケイタイが鳴った。
「曽根さんですか?契約の○△ですが、■の案件の仕様書について確認をしたいんですが、今、ファイルを開けますか?」
「え、あ、う、う、え〜と、すみません。今、ちょっと手元にパソコンがないのですが・・ちなみに私の周りは360°地平線が広がっておりまして・・メールの確認も今はちょっと困難な状況にありまして・・来週半ばには日本に戻りますが、それからでも宜しいでしょうか?」
「えっ! はあ〜? ああ、もしかして『はやぶさ』ですか? そりゃあ、お疲れ様です。分かりました。帰ってきてからでOKです! 頑張ってくださいね。」
「あ、はい、ありがとうございます。それではまた。」
・・・・もとい、ここはやっぱり・・・・火星じゃない。

 そういえばこの夏、子供が学校からカイコをもらってきた。私はあまりワーム系が得意ではないので何が可愛いのか良く分からないけど、桑の葉を集めては熱心に飼っていた。
「火星に行くなら、これ、食うんだよ。」
「・・うそ・・・・・お父さん・・・・『だいっ嫌い!』」
蚕の顔を正面から見つめて思った。
「コイツを食って見せたら宇宙飛行士にしてやる」
と言われたら頭からバリバリ食ってみせるけど、望んで食うまでには訓練だろうなあ。

 今、僕の周りには月での長期滞在や火星探査に思いを馳せる人たちがいる。ロボットで探査をしようとする人たちもいれば、人を生かし続ける研究をしている人たちもいる。中でも、カイコを食ってでも宇宙で生き続けようという人たちを、尊敬せずにはいられない。子供のころ、僕の田舎では、普通に田んぼで捕ったタニシを食べていたけど、彼らが食べようというタニシ(で良いのでしょうか、山下先生?)はデカイ。確か君も火星に行きたいんだよね。(「今は」ヒトゴトだから言えるけど)大丈夫だよ、慣れればきっと。

 火星では、まさか携帯で呼ばれることはないだろうけど、はやく身近にしたいね。僕は、去年、現状技術の中で月での長期滞在を可能にする電池の研究を進めてみた。低温から高温まで広い温度範囲で耐える化学電池の運用の仕方を見出そうとした。君が行くまでには、火星の過酷な環境にも耐える保管性能と極低温の動作性を確保した超小型軽量二次電池の運用手法を確立しておくから、任せてくれ。

 最近、閉鎖環境の制御技術を研究する人たちとの付き合いが生まれて、宇宙飛行士の生命維持パックにとても興味がわいている。電池が小型軽量になっていく中で、蓄えるエネルギーの密度はどんどん高くなる。それをランドセルに背負って歩く宇宙飛行士。宇宙ステーションのメンテナンスで背中を打ち付けることはないのか?重力環境になる月や火星では転ぶこともあるだろう。その先に岩があったら?
いつか宇宙服の機動性に貢献できる電源のあり方について、現場からの意見として、君の考えを聞かせて欲しい。

 最後に一つ、是非、心に留めてほしいことをメッセージとして贈らせてくれ。こんな僕が書いた文章でも、応援のメッセージや感想を寄せてくださる方達がいる。本当に感謝の気持ちで一杯になる。

 誰もが悩みながらの人生。僕は技術系を志したけど、理学系の人たちの語る探査は本当にワクワクする。縁の下の力持ちの電池屋に誇りはあるけど、本当にこの道でよかったのか?宇宙飛行士になりたいなんて気持ちも、今でさえも捨てられない。そもそも理系に進んできたことが正しかったのか? 友人は企画畑で「切った、張った」をしながら世の中を動かす勢いで宇宙開発に取り組んでいたりする。そんな中で僕はいつも言い聞かせているんだ。
「人生、自分にとって悪いことは、決して起こらない。全ての流れは自分の糧になる。自分の道を信じよう。」
って。宇宙飛行士になってさえ、その道が良かったのかきっと悩む時が来るんだろう。でも、宇宙探査に思いを重ねてくれる人たちがたくさんいることを忘れず、勇気の沸く多くのメッセージを、これからも、どうか伝えてほしい。

 僕は暫く走るのをやめていた。でも、君の話を読む勇気がでてきて、また、走り始めた。人生、どこでどんなチャンスが転がってくるか分からない。僕の人生の中で、2度も宇宙飛行士の試験が受けられるとは思わなかった。2度あることは、きっと、3度ある。

Think Positive!

いつか、まみえんことを祈念して。
宇宙の電池屋より。

(曽根理嗣、そね・よしつぐ)

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※