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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第246号

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ISASメールマガジン   第246号       【 発行日− 09.06.09 】
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★こんにちは、山本です。

 11日(木)に「かぐや」が月に落下(予定)します。
その際、衝突閃光を観測できる可能性がわずかにあるようです。地上から望遠鏡などで観測できるレベルの発光である可能性は少ないと予測されていますが、観測を試みられます方は下記HPから問い合わせください。
新しいウィンドウが開きます http://www.kaguya.jaxa.jp/ja/communication/KAGUYA_Lunar_Impact_j.htm

 今週は、「かぐや」ではなく、「かぐや」のリレー衛星の話を、固体惑星科学研究系の春山純一(はるやま・じゅんいち)さんにお願いしました。

── INDEX──────────────────────────────
★01:リレー衛星運用終了に当たって
☆02:今週のはやぶさ君
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★01:リレー衛星運用終了に当たって

 2009年6月11日、月探査機SELENE(かぐや)は、その使命を果たし、月にその永住の地を得ます。
(⇒ 新しいウィンドウが開きます http://www.selene.jaxa.jp/ja/communication/KAGUYA_Lunar_Impact_j.htm

 さて、それに先立ち、「かぐや」の子衛星であるリレー衛星は、今年2月12日午後11時(日本時間)ちょっとすぎ、月裏側の重力場を世界で初めて正確に知る為の任務を存分に果たし、JAXA宇宙科学研究本部の岩田隆浩准教授ならびに、重力場観測チームの学生さんたち、そして、ファンクションマネージャの祖父江さん、フライトディレクタである南野さん、そして運用担当のメーカの方々によって、予定通り、交信途絶が確認されました。その安住の地もまた、月の裏側でした。

 実は、リレー衛星のスタートには、私は少し絡むことになりました。その思い出を、ここで少しお話しさせていただきたいと思います。

 SELENE計画発足当時、ですから、もう10年以上も前の事になりますが、当時の宇宙開発事業団(NASDA)では、他国の月探査計画の調査や、我が国の地球観測衛星の考えなどを元にして、月データリレー衛星の構想が、色々と検討されていました。それは、子衛星を月の周り300kmx3000kmの楕円軌道に投入し、主衛星が月の裏側にいても、データのリレー(送信)を行い、より効率的なデータ取得送信を目指そうというものでした。
また、この衛星経由で月裏側での主衛星の軌道が変化するのを追尾し、月の裏側の重力場を調べようという目的も兼ねていました。現在のリレー衛星の原型となるものです。これはなかなか魅力的なミッションでしたが、いかんせんデータリレー衛星の重量は100kg近くにもなるものでした。そんな中、九州大の並木さん(現千葉工大)や、当時ブラウン大学におられた杉田さん(現東大)からも、SELENEで月の裏側の重力場を調べたい、リレー衛星は出来ないか、という話がきました。当時NASDAにポスドクとして籍を得たばかりの私は、NASDAの事前検討結果を知らせ、100kgという重量でありかなり難しいのではないか、ということを「通ぶって」意見してしまいました。

 しかし、少しばかり並木さんらと議論して気づいたことは、(他機器の観測)データなどのリレーを我慢し、重力場観測に特化するなら、もう少し重量削減できるのではないか、ということでした。そこで、当時同じ部屋にいた名村さ ん(現JAXA宇宙輸送ミッション本部)に、この方式を検討してもらったら、十分軽くなりそうということになりました。他にも色々軽量化の検討をしてもらいました。すると、重量概算では、かなり軽くなりそう、と言うことです。
その軽量化アイデアでもってプロジェクトに、リレー衛星を提案したところ、搭載候補にあげてもらえることになりました。(ちなみに、データリレーは、その後、地球観測衛星にて技術実証されることになります。)

 私が浅薄な知識で、最初の構想から、子衛星なんてとんでもない、と言い続け、そのあと議論をせず、また資料を見直さなかったら、或いは、並木さんや杉田さんの月の裏側重力場計測の重要性の理解と達成への熱い思いがなかったら、名村さんの工学的な専門知識と理学研究者からの要求への柔軟な対応姿勢がなかったら、SELENEのリレー衛星は無かったかもしれません。

 ちょっと話が変わりますが、私が大学4年の時、先輩を頼み、宇宙研を初めて訪れたとき、ある先生が宇宙研の中を色々紹介してくださいました。そのとき、最も強烈な印象として残っているものの一つが、A棟の一階の玄関脇にある、レリーフです。そこには、彗星を真ん中に、左右に向き合うように手が描かれています。宇宙研に来られた方は、御覧になったことがありますでしょうか?
そのとき、その先生が語るには、
「こちらの手は工学(エンジニア)、こちらの手は理学(サイエンスティスト)、両者が手を携えて(ハレー彗星)探査を行っている様子だ。これが宇宙研のすばらしさだ」
ということでした。ここ宇宙研は、工学と理学が非常に緊密な連携のもと、研究開発を進めているのだなぁ、と感動しました。

 その後、私は、大学院生として宇宙研で過ごした後、機会有って、NASDAにポスドクとして籍を得、そして、NASDAの優れたエンジニアと大学における熱意ある研究者の緊密な連携のもとに初めて可能となるリレー衛星の誕生に場に絡むことになったわけです。とてもエキサイティングな素晴らしい体験でした。ミッション検討は、サイエンス、工学、プロジェクト(資金や機器搭載選定プロセス)などを本当に理解している人たちが熱意を持って十分語り合う環境があると、達成できるものだな、と再認識したのを、10年前の事ながら、なつかしく思い出します。

 さて、リレー衛星の誕生には、このように私も少しは絡むことがあったのですが、その後の開発は想像を絶するほど苦難の途だったようです。旧NASDAの頃からの同僚であるJAXAの岩田さんは、普段は温厚な方ですが、メーカの方々とよく電話で激烈なやりとりをされていました。私も自分の機器開発の経験でわかりますが、気の遠くなるような資料作成、テスト、テスト、テスト、そして被告と言われんばかりのレビュー会、それへのチーム内での事前対策会議……。毎年ある時期になるとおそわれる、メーカからの予算追加要求とプロジェクトからの予算削減要求の板挟み。そして打上も間近になると、機器開発に平行して、地上系処理システムや運用系ソフトの開発、試験……。とにかくSELENE漬けの開発の日々だったと思います。打ち上がってからも、当時九州大の並木さん自ら何度も宇宙研に来られて、間断なく運用をされていました。本当に、言うは易く行うは難しです。

 リレー衛星は、その役目を終えましたが、(ちょっとおおげさな言い方かもしれませんが)人類の歴史に、リレー衛星、そしてそれを開発し運用を支えた重力場チーム、メーカの方々の名は、誇り高く刻まれる事でしょう。

(春山純一、はるやま・じゅんいち)

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※