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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第226号

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ISASメールマガジン   第226号       【 発行日− 09.01.20 】
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★こんにちは、山本です。

 18日に京都で開催した「宇宙学校」の感想メールが届きました。一緒に参加した小学2年生のお孫さんのうれしそうな笑顔が見えそうな楽しいメールでした。ありがとうございます。早速、講師の先生たちに転送しておきます。

 今週は、その「宇宙学校・きょうと」で【ブラックホールと宇宙のひみつ】の先生を担当していた 宇宙科学情報解析研究系の海老沢 研(えびさわ・けん)さんです。

── INDEX──────────────────────────────
★01:タオルミーナの休日
☆02:「宇宙学校・きょうと」開催
☆03:今週のはやぶさ君
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★01:タオルミーナの休日

 6月の陽光を照り返して眩しすぎる地中海を眺めつつ、トロトロと走る各駅電車に何時間も揺られ、やっとタオルミーナ駅に着いて、ベンチに座ってラップトップを開いていたら、
“Excuse me, do you know any cheap hotels around here?”、
と言われたような気がして顔を上げると、さっき、おそろしく重たいスーツケースを電車から降ろしているところを手伝ってあげた女性だった。いやあ、そんなことを言われても、こっちこそ聞きたいぐらいだ。だって、明朝カターニャ空港行きのバスに乗るまで、僕のこの街での予定は、なんにも決まっていないのだから。

 タオルミーナという街の名前は、なんども耳にしていた。紀元前八世紀にギリシア人が住み着いて以来、カルタゴが征し、ローマが征し、さらにはイスラム、ノルマン、その後も次々と異なる民族に征服され、たくさんの異文化がまるできらびやかなタペストリを織りなしているようなシチリア島で、地中海を臨んで宝石のような輝きを放っているというこの小さな街を、一度訪れてみたいと、ずっと以前から思っていた。

 毎夏、シチリアの北東にある小さな島、ヴルカノ島で開かれる高エネルギー天文学の研究会は、ある意味、伝説の研究会だ。「どうやってここまで辿り着いたの?」が挨拶になる研究会なんて、世界中探しても、ここくらいだろう。バスのスケジュールは当てにならないし、港までの電車も勝手に引き返すし、海が荒れると船はすぐに止まってしまう。でも、澄み切った海に囲まれた、泥の温泉と火山で有名なこの島までなんとか辿り着いてしまえば、そこはインターネットもつながっていない、白ワインとシーフードがとびきり美味しい楽園で、世界中から集まった科学者たちが一堂に会して宇宙の謎に挑む、厳しくも楽しい合宿研究会の始まりだ。僕はこの伝説の研究会に参加するのは三回め。今回ヴルカノ島に一週間滞在した後は、成田を経由してそのままハワイへ。そこでは世界最大の望遠鏡を使って、天の川上の小さな領域、「僕の空」の赤外線観測が待っている。めちゃくちゃ忙しいスケジュールの合間に、初めてタオルミーナで過ごす短い時間が取れて、僕の心はそれだけで浮き浮きとしてくる。

 どうしてこんなにスーツケースが重たいの、って聞くと、数学の論文とお土産のワインがぎっしりと詰まってるからだって?彼女はワルシャワの大学で数学を教えている准教授。ちょうど僕と同じように、シチリアで数学の研究会に参加して、その帰りにタオルミーナに寄ることにしたそうだ。お金がなくて、一泊60ユーロ以上は払えないったって、夏のタオルミーナでそりゃ無理だよ。タクシーに乗るお金もないから、海沿いの駅から丘の上の街まで歩きながら安いホテルを探すつもりだと言うけど、お嬢さん、そんなに小さな体で大きなスーツケースに引きずられて、イタリアの観光地をふらふらと歩いてちゃあ、大変危険ですよ。日本人だったらこういう女の子のことを、「天然」って呼ぶんだけどなあ…。

 僕は彼女のスーツケースを引きながら、安ホテルを探して歩き始める。僕は天文学の研究をしていて、やっぱり研究会の帰りなんだ。ポーランドにも共同研究者がいて、二回行ったことがあるよ。彼とは一緒にブラックホールの研究をしていて、今度日本に招待する予定なんだ。

 石畳の坂道をのんびりと登りながら、僕たちは話し続ける。僕の専門はX線天文学で、その中でも三つの大きな謎に挑んでいる。一つめは、「中くらい」のブラックホールは存在するかどうか、っていう謎。ブラックホールには二種類あって、太陽の重さの10倍くらいのものと、100万倍以上のものの存在は確認されている。じゃあ、宇宙には、その中間の、太陽の1000倍くらいの重さのブラックホールが存在するかどうか、って ことがホットな話題になってるんだ。
ブラックホールをX線で見たときの明るさは、だいたいその重さに比例するんだけど、太陽の重さの10倍のブラックホールよりも100倍くらい明るい、「中くらいの明るさ」のブラックホールが、最近、いくつも見つかってきたんだな。明るさから推測して、それは太陽の1000倍くらいの「中くらいの重さ」のブラックホールに違いない、と考える研究者もいるのだけれども、僕がデータをじっくりと眺めてみる限り、どうもそうとは思えない(X線データからブラックホールの質量を推定するのが僕の博士論文のテーマだったから、眼力はあるんだ)。僕の予想では、それらの天体は太陽の30倍くらいの重さのブラックホールが、何らかの理由で極端に明るく光っている状態のように見える。実際、太陽の1000倍の重さのブラックホールを作るメカニズムは知られていないのだけれども、30倍のブラックホールだったら、巨大な星の爆発の後にできることがわかっている。だから、僕の説の方がもっともらしいと思ってるんだけどなあ。将来、観測技術が進んでブラックホールの重さが正確に決まり、僕の予想が正しかったと証明されることを願ってるんだけど。

 ハイシーズンのタオルミーナのホテルは、ほとんどどこも満室だ。たまに空いていても、60ユーロではとても泊まれない。でも、そんな事は気にせずに、僕たちは宇宙の研究、数学の研究の面白さを夢中で語り合いながら歩き続ける。しかし、今宵の宿はどうしたものか、と思っていたら、運良く、街外れのレストランの二階に安いゲストハウスを見つけて、二つのシングルルームを取ることができた。やっと重い荷物を置いて、僕たちは街に繰り出す。さあ、短いけれども楽しい、「タオルミーナの休日」の始まりだ!

 高級なブランドショップが建ち並ぶ、賑やかなピアッツア。街の中心にそびえ立つ、十二世紀に建てられたドーモ。紀元前三世紀にギリシア人によって建造され、その後ローマ人によって改造されたという円形劇場。僕たちは美しい街並を散策しながら、二千有余年の歴史を遡る。地中海を背景とする円形劇場では、いまでも毎晩のように演劇やコンサートが催されていると言う。二千年に渡って、人間の喜びや怒りや、哀しみや楽しみが演じられてきた舞台を眺めながら、僕たちは石段の座席に腰かけて宇宙と数学を語り続ける。僕が取りくんでいる二つめの謎は、ブラックホールのすぐ近くから出ていると言われている、鉄のスペクトル輝線の謎。ブラックホールをX線で観測し、横軸にX線のエネルギー、縦軸に強度をとったのがエネルギースペクトル。その図の上で、ぴんと立っている細い線が、元素が発するスペクトル輝線。宇宙には特に鉄が多いから、鉄の輝線を手がかりとして、僕たちは天体の様子を探る。もしも鉄輝線がブラックホールのすぐ近くから出ているとすると、光さえも強い重力に引きこまれてエネルギーを失い、鉄輝線は低エネルギー側に裾をひいて、非対称に広がるはずだ。それがいろいろなブラックホールから観測されていて、まさにブラックホールに固有の強い重力場の証拠だ、と主張する人たちがいるのだけれども、僕の目から見ると、それほど単純な話じゃあない。実は、鉄のスペクトル輝線が乗っている「土台」の連続スペクトルの形が、まだよくわかっていなくて、その土台の「うねり」のせいで,スペクトル輝線が広がって見えることがあるんだ。
僕はじっくりと時間をかけてデータを眺めているのだけれども、それらの鉄輝線の多くは、ブラックホールの近傍ではなく、かなりブラックホールから遠いところから出ているのではないか、という感触を持っている。もしそれが本当だとしたら、多くの科学者が信じている定説をひっくり返すことになるかもしれないけれども。

 西日に紅く染まる円形劇場で、僕はあなたに宇宙の謎を語り、あなたは数学への思いを熱く語る。その横顔を見つめながら、僕はふと思う。僕たちが宇宙と数学を語っているこの場所で、二千年前のローマ人たちは、いったい何を語っていたのだろうか? あるいは、時間軸を反転させて、二千年後、未来社会の人々は、ここでいったい何を語りあうのだろうか? 今から二千年後の世界でも、自然の真の姿は厚いヴェールに覆われたまま、未だ人類の前に明らかになってはおらず、真理を追究するためにそのヴェールを一枚一枚剥がしていく、科学という名の、切実で気の遠くなるような営みは、まだ続いているのだろうか?

 潮風が心地よいオープンカフェで、オリーブとシーフードピザ、カラスミのスパゲティを肴に白ワインを飲みながら、僕たちは話し続ける。僕が取りくんでいる三つめの謎は、天の川銀河面から出ているX線の謎。肉眼でぼんやりと拡がった天の川が見えるように、X線で観測しても天の川は存在する。目で見える天の川は本当の川ではなくて、二千億個の星の集まりであることがわかっているけど、じゃあ、X線で見た天の川が無数の暗いX線星からなっているのか、あるいは川の水のように拡がっているのか、そんな単純な問題に、発見から30年たった今でも、まだ決着がついていない。僕が高性能のX線望遠鏡で調べてみたところ、暗いX線星の数は限られていて、残りのX線は星間空間に拡がった高温ガスから出ているようだ。しかし、いやそうではない、もっと、もっと暗い、微弱なX線を出している星が、実は天の川にはもっと、もっとたくさん隠れていて、それらが集まってぼんやりとX線を放射するガスのように見えているだけだ、と主張する研究者もいる。本当にそうだろうか? もしそうだとしたら、それらのごく暗いX線星は、地上の大望遠鏡を使えば、透過力の強い赤外線では見えないだろうか? 僕はそれを確かめるために、明日からハワイに観測に行くんだ。

 ときどきワルシャワからの国際電話が彼女の携帯電話を鳴らし、僕たちの会話の邪魔をする。彼女の子供が風邪をひいて、オロオロした夫がいちいちアドバイスを求めてくるそうだ。母親の顔に戻って、申し訳なさそうに会話を中断したあなたは、電話を切ると、また数学の研究の話を続ける。緑色の瞳を輝かせ、彼女が一生懸命伝えようとしている数学の世界の美しさを、僕は限られた知識を総動員して、必死で理解しようとする。僕たちは、残された時間の間にどうしても伝えておきたいことがあるかのように、一寸を惜しんで宇宙と数学の神秘を語り続ける。

 おいしい食事とお酒と、素敵な人との知的な会話。爽やかなシチリアの夏の夕べ。おそらく僕はこの幸福な一日を一生忘れない。いやあ、頑張って宇宙の研究をして海外の研究会に出席すると、そのオマケとして、たまにはこんなラッキーなこともあるもんだなあ…。

 いや、ちょっと待てよ。もしかしたら、それはただの「オマケ」じゃなくて、逆かも知れないぞ。二人でシチリア産の白ワインのボトルを三本も空けて、ふわふわした頭で考える。そもそも、僕たちは、人間が宇宙に誕生してきた意味を知らないし、何のために生きているのかさえも、わからない。そう思うと、どうしようもない孤独感に襲われて、生きているのが不安になることだってある。でも、僕たちは、科学を学ぶことによって、美しい物理法則を理解し、宇宙の歴史と構造を知り、自然の真理に触れることができる。こんなちっぽけな人間でも宇宙を理解することができる、って言うことに、人間存在の意味があるのかな、なんて思ったりもする。そして、宇宙ってこうなってるんだ!っていう純粋な驚きと感動を、人と語り合い、分かち合うことで、孤独から脱出して安心することができる。だから、自然の真理について、いつでも、どこでも、だれとでも、こうやって思う存分、自由に語り合うための知識と言葉を身につけるために、僕たち人間は宇宙や数学の研究をするのだ、と言ってもよいのではないだろうか?

 レストランの二階の隣り合った部屋の前で、僕たちはビズをして別れる。ちょっぴり名残り惜しいけれども、あなたにはあなたの、僕には僕の人生があるから。一応メールアドレスの交換はしたけれども、僕はあなたにメールを出すつもりはないし、あなたも僕にメールをくれないような気がする。たった一回きりの出会いを、美しい街で過ごした思い出を、そっとそのまま大切にしまっておきたいから。

 僕たちはこの星の上で、もう二度と会うことはないだろう。でも、それは決して寂しいことではないんだ。なぜなら、あなたは数学の神秘を、僕は宇宙の神秘をより深く追究することによって、僕たちの心は目に見えない世界でより深く繋がることができるから。そして、それは、時間と空間を超えた永遠の真理に繋がる、とても美しくて尊いことだから。自然の真理の言葉を使えば、二千年前のローマ人とも、二千年後の未来人とも、きっと僕たちは語り合うことができる。壁一枚隔てた部屋で、たぶんあなたも、そんなことを考えているはず。

 さあ、明日は早いぞ。シチリアからローマ、成田、ホノルルを経由してマウナケア行きだ。ゆっくり体を休めて、高度4000メートルでの厳しい観測に備えないと。おやすみなさい、美しい人。あなたのお子さんの風邪が早く良くなりますように。

(海老沢 研、えびさわ・けん)

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※