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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第142号

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ISASメールマガジン   第142号       【 発行日− 07.06.05 】
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★こんにちは、山本です。

 相模原キャンパスのアジサイが咲き始めました。そろそろ関東地方も梅雨入りでしょうか。

 6月は「更衣」、ISASのHPも一部更衣(リニューアル)しています。 そんな話題も……

 今週は、宇宙科学情報解析センターの海老沢 研(えびさわ・けん)さんです。
なかなか原稿が届かないと心配していたら、出張中のイタリア・シチリア島からメールで送られてきました。

── INDEX──────────────────────────────
★01:ブラックホールとパウリの夢
☆02:ISASでがんばる大学院生たち
☆03:大気球を使った無重力実験システムの動作試験に成功
☆04:小型科学衛星「れいめい」の現状と今後
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★01:ブラックホールとパウリの夢

 研究に疲れた時に紐解くために、僕のオフィスの書棚に置いてある一冊の本がある。「Atom and Architype」、物理学と心理学と言う全く異なった分野において20世紀を代表する二人の巨頭、パウリとユングの間で26年間に渡って交わされた往復書簡集のドイツ語原本からの英訳である。手紙のやり取りは、1932年、「パウリの排他律」を初めとする数々の発見をすでに成し挙げ、チューリヒ工科大学の若き教授として一見キャリアの絶頂にあった32歳のパウリ(後の1945年にノーベル物理学賞を受賞)が、母の自殺と自身の離婚を経て、様々な苦悩を抱えて25歳年上のユングを訪問した時から始まったという。80通に上る書簡の題材のほとんどは、パウリの見た夢とそれに対するユングの分析である。僕が宇宙物理学者だと知って、この不思議な本の存在を教えてくれたのは、チューリヒのユング研究所で教えているスイス人の分析家である。

 僕の書棚にある「Atom and Architype」には、Nature誌に掲載されたその書評のコピー(H. J. Eysenck, Nature, 1993, vol.361, 415)が挟んである。評者のアイゼンク氏は、人間の心を定量的、客観的に記述し、心理学を真の自然科学たらしめようとした、実験的な立場の心理学の大家である。僕はいまだかって、日本語でも英語でもこれほど辛辣で攻撃的な書評を見たことがない。
「パウリのような超一流の科学者がユングのようなアヤシゲな人物(mystic)と交流していたこと自体が不思議だ」、「ユングの著作は曖昧で、正当な心理学には程遠く、まともな心理学の教育を受けていない少数の熱狂的なグループに信奉されているにすぎない」、「この本にもし意味があるとしたら、あのニュートンさえも錬金術に魅せられたように、偉大な知性も時には愚かなものに惑わされることがある、と言う事実を示したというだけだ」。。。

 2001年の夏から2004年の終わりまで、僕はジュネーブのインテグラルサイエンスデータセンターで、ヨーロッパのインテグラル天文衛星データシステムの開発と、そのデータを使ったブラックホールの研究に従事していた。思いもかけず僕が人生の一時期をスイスで暮らす原因となった事件は、2000年2月10日に起きた。その日、午前10時30分に内之浦宇宙センターを飛び立ったM-Vロケットは、噴射口近くの断熱材が予定よりほんの少しだけ早く燃え尽きてしまったため、わずかに進路を狂わせ、ASTRO-E衛星を予定していた地球周回軌道に乗せることに失敗した。NASAでASTRO-E担当の任期付き職員だった僕は、養うべき家族を連れて路頭に迷うことになった。幸い、ヨーロッパから打上げ予定のインテグラル衛星の仕事が見つかり、妻と幼い息子二人を連れて、スイスでしばらくの間働くことを決心した。

 スイスは人口600万足らずの小国でありながら基礎科学に秀でていて、自然科学分野で日本よりも数多くのノーベル賞受賞者を輩出している。20世紀初頭、チューリヒ工科大学を卒業した若きアインシュタインが、ベルンの特許庁に勤めながらごく短期間に特殊相対性理論の発見を始めとする歴史的な論文をいくつも書きあげたことはよく知られている。ジュネーブには世界最大の素粒子加速器を持つCERNがあり、僕は毎日パスポートを持って、フランスとスイスに跨る巨大地下リングの上を通って研究所に通っていた。高エネルギー天文学の分野ではスイスはやや立ち遅れていたが、新たな拠点を作ることでこの分野でも世界の第一線に躍り出よう、という魂胆で、ジュネーブにインテグラル衛星のデータセンターが設立されたのだった。インテグラル衛星打上げから4年半経った今になって振り返ってみると、その目論見はまさに成功したと言って良いだろう。

 1980年4月、美しい桜の季節の京都。科学への憧れを持って日本中から京都に集ってきた若者たちが、その世界へ続く道に一歩足を踏み入れた興奮を持って、目を輝かせながら大層な自己紹介をしている。サラリーマンになりたくて京大理学部に来る奴はほとんどいない。みんな青臭い言葉で、科学者になって真理を探究する夢を語っている。この宇宙の根本原理を知りたい。湯川秀樹、朝永振一郎に憧れて素粒子論をやるために京都に来た。宇宙論、統一理論、数学基礎論を極めたい、文学部で哲学をやるか理学部で 物理学をやるか迷ったあげく理学部に来た、などなど。。。気障で格好をつけた、今思えば気恥ずかしい言葉が遅れもなく飛び交う。受験競争は要領よくくぐり抜けたかもしれないが、科学の科の字も知らない無知な若者たちは、駄々っ子のように、この世界の、宇宙の、「すべて」を説明する美しい理論を欲しがる。しかし、そんなものが簡単に手に入るわけがないのだ! 重力場の量子化ひとつ取っても、世界中の天才たちが何十年取り組んだって、全く歯が立たないほど難しい問題なのだから。。。

 科学的真理に至る道は果てしなく遠い。「ぼんやりと」科学に憧れを抱いて理学部に入った若者たちは、ほぼ間違いなく挫折する。そんな無知でナイーブな若者の一人だった僕も、難解な講義にすっかりついていけなくなって、文学部か教育学部に転部して、哲学か心理学に専門を変えようかと真剣に考えていた。禅寺を回って座禅を組みながら、理学部出身でユング心理学の専門家になった河合隼雄氏や、医師でありながら人間の深い精神性の洞察に富んだ、エリザベス・キュブラー・ロスや神谷美恵子の著作に没頭していた。

 やがて若者たちは、挫折を乗り越え、現実に目覚め、理学部の中で何らかの具体的な専門を見出していく。すべてを説明する美しい理論へ至る前にやるべきことは限りなくあるし、「解ける問題をきちんと解くこと」が科学の役割に他ならないのだと気付く。そもそも、自然界のすべてを説明してくれる素敵な理論なんて、存在するかどうかもわからないし、宇宙の存在の意味だとか、答えの出ない問題を永遠に考え続けたりするのは、(それにもし意味があるとしたら)科学者じゃなくて、哲学者の仕事だ。そして、どんな科学の分野でも、足を踏み入れてみれば恐ろしく奥が深く、やりがいがあって面白いのだ!
 落ちこぼれの僕も、じっくりと時間をかけて教科書を読み、カリカリと演習問題を解いたりしているうちに、だんだんと物理や数学の勉強がわかるようになってきた。人より余計に時間がかかったけど、留年して 大学院に入って、希望通り宇宙物理の勉強をすることができた。

 やがて博士号を取得して研究者として給料を貰うようになると、僕は「宇宙のすべてを説明する美しい理論」のことは、ほとんど気に留めなくなった。人工衛星を上げてそのデータベースを整備したり、観測データを正確に解釈して論文を書いたりすることが普通の科学者の仕事で、それはそれでとっても大変なことなのだ。そうやって、地道にキャリアを全うするのが、職業として科学者を選んだ者の正しいあり方なのだ、と自覚するようになった。それには、自分の専門の及ばないことや論理的な議論を展開することが困難な問題、一言で言えば「わからないこと」には敢えて口は挟まない、という自重も含まれる。

 アイゼンクのユング批判の背後には、物理学と心理学の融合なんて夢物語みたいなことを言ってんじゃねえよ、心理学っていうのはそんなに甘いもんじゃないんだ、人間の脳と心と言う超複雑なコンピューターを理解するには、実験的事実をコツコツと積み上げて論理を組み立てていくしかないんだ、と言う、科学者としてごく真っ当な主張があるように思える。それはまるで、無知な若者たちが安易に「すべての説明」を欲しがる甘さを戒め、科学と言うのはそんな簡単なものじゃないんだ、プロを目指すならまずはしっかりと教科書を読んで練習問題を解いて、基礎的な勉強に励めよ、と諭している言葉のようにも聞こえる。

 しかし、僕はふと思う。アイゼンクのユング批判は激しすぎる。その激しい言葉はNature誌の中でも特異で、その過激な書評のお陰でパウリとユングによる異色の書の存在を逆に際立たせている。本当にくだらない本だと思っていたら無視すれば良いのであって、一流誌に載る書評なんか引き受けないはずだ。ユングの言葉で言うと、激しい外向きの攻撃の背後には、意識したくない内的なシャドウが隠れている。実際のところ、アイゼンク自身も、心理学者として、究極的には人間の意識を物理的に解明することを夢見ていたのではないだろうか。それが遥か彼方の叶わぬ夢であることを知っているからこそ、プロの学者として自分の専門範囲を限定し、それを逸脱した主張をしないように心掛けていたのではないか?
 だからこそ、自分では固く封印していた、心の世界と物質の世界に跨るような危うい議論を持ち出してきたユングやパウリが許せなかったのではないだろうか?

 僕にとってスイスとは、科学の国と言うよりも、ユングとエリザベス・キュブラー・ロスを生んだ国、神谷美恵子が多感な少女時代を過ごして文学的才能を開花させた国、河合隼雄が日本人として初めてユング派の分析家の資格を取得した国、であった。一応研究者として独り立ちし、日々の仕事や生活に追われ、もう研究以外のことを考える時間も精神的余裕もあまりなくなっていた僕が、偶然、人生の半ばで、その国に住む機会を得たことに不思議な縁を感じた。それをシンクロニシティーと呼んだりすると、アイゼンクに叱られそうだけど。

 キャリアの半ばで大学を退職したユングは、チューリヒ湖の北岸の地に石の塔を積み上げながら、そこに数年間籠って、社会との接触を断ち、内的な思索に耽ったという。その間にユングは独自の心理学の体系を築き上げ、旺盛な執筆活動を始めたのはその後である。僕はその小さな塔を訪ね、ユングはいったいこの場所で何を考えていたのだろうか、と思いを巡らせていた。チューリヒのユング研究所では、ユングのクライアントが分析を受けながら自分の無意識の変化を象徴的に描いたという一連の絵に感銘を受け、テーマがセンシティブ過ぎて日本語では出版できないという、日本建国神話をユング的に解釈した河合隼雄氏のディプロマ論文も読んだ。そこではスイス人や日本人を始めとするいろいろな国籍を持った人たち、分析家や精神科医や文化人類学者など不思議なバックグラウンドを持った人たちとのかけがえのない出会いがあり、自然について、宇宙について、心について、夢について、大いに語り合った。全く分野の異なる専門家と、何の枠にもとらわれず、自由に議論を交わす知的興奮と喜びは、ジュネーブの研究所でインテグラル衛星のデータを解析して、新たなブラックホール候補天体を世界で初めて発見したときの喜びとほとんど変わらない。

 僕は、一人の研究者としての自覚を持って、自分のわからないことについて安易な言葉で発言することは慎もうと思う。でも、ブラックホールにしろ人間の心にしろ、我々の存在を包む「全体」の一部なのだから、答えが出ないことは分かっていても、「全体の意味」について思索を続けることを、僕は止めはしないだろう。残されている短い時間の間に、いろいろなところに旅をし、たくさんの分野の、様々なバックグラウンドを持った人々と対話し、宇宙の不思議、生命の不思議、人間の不思議に驚嘆し、それを分かち合い、精一杯味わい、楽しみたい。そういう対話を続けていけば、もしかしたら何億年か先、永遠という時刻のちょっと手前で、僕たちの前に全体の意味が明らかになるかもしれない。いずれにしろ、ブラックホールの研究にいそしんだジュネーブの研究所と、人間の心の不思議に触れたチューリヒ湖畔の研究所は、僕にとってどちらもスイス時代の美しい思い出である。僕の中で、二つの世界は確かに一つにつながっている。

(海老沢 研、えびさわ・けん)

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※