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ISASメールマガジン 第110号
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ISASメールマガジン 第110号 【 発行日− 06.10.17 】
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★こんにちは、山本です。
10月も半ばを過ぎ、相模原や東京でも朝晩は涼しくなってきました。
街へ出ると、私の感覚では真冬のような装いの人たちを多く見かけます。
本当に寒くなったら何を着るんでしょう?
先週末は、内之浦宇宙空間観測所の一般公開で、相模原からも「ひので」の打上げから帰ってきたばかりの人たちも応援に行っていました。入場者は、相模原キャンパスと比べてはいけないような数だったようですが、「参加者の満足度は100%」との報告もきています。
今週は、宇宙情報・エネルギー工学研究系の平林久(ひらばやし・ひさし) さんです。
── INDEX──────────────────────────────
★01:M-Vはウルトラマンのように逝きました
☆02:JAXAコラム「星の誕生と死のドラマ」
───────────────────────────────────
★01:M-Vはウルトラマンのように逝きました
M-Vには特別な思い入れがあります。「はるか」が1号機で打ち上げられたからです。1号機の打上げ前の2週間くらいからは、食べ物の味もわからず、生きているという実感がありませんでした。
最後のM-Vの打上げをみました。お客さんと一緒にみるという役でした。
今回の打上げは、M-Vをただ心を込めて見送るつもりでいったのです。
鹿児島空港から内之浦までの道辺に万寿紗華の花がたくさん咲いていました。赤だけでなく黄色も白もあっておどろきました。
葉っぱがなくて地中からにゅっと出て赤い色をだしている彼岸花は、故郷ではめったに見ませんでした。それで、ちょっとこの世のものでないような感じがしていました。母が亡くなったあとで、この花を見ると、その茎が根をとおしてあの世と通じているように思えました。母の死のあとの悲しみがおさまっていくなかで、そういう想いはおさまっていきました。
内之浦からの帰りのタクシーの運転手さんに聴いてみました。
「あの道端の花はこちらではなんといいますか」
「彼岸花って言うね。彼岸の頃に咲くからね」
「そうですか。わたしは信州の山の中の出だけど、やはり彼岸花っていいましたねー」
帰りの鹿屋からのリムジンバスのなかでも、目は彼岸花を追っていました。彼岸花ってM-Vに似てるなあと思い始めました。あのウルトラマンのような配色と思いきりな単純さ、それがどこかアンバランスなかたちと配色の彼岸花を思わせました。M-Vはゆっくりとではなく、シュワッチと最初から頑張って飛んでいきます。あ、M-Vはウルトラマンだなぁ。そう、思いました。彼岸花は噴射を思わせるなあとも。
考えてみると、M-Vはぼくらにとってウルトラマンだったのかもしれません。M-Vが無事にとびたってよかったといっそう思いました。ミューシリーズの最期なんだから絶対に立派に飛び立って欲しかったのです。
帰りの飛行機のなかの新聞に、「彼岸」について小さな記事がありました。
平安時代、西方に理想の世界があると説いてやってくる僧たちを、お彼岸さんと呼んだのだそうです。そのころは、陽が真西に沈む日は、だいじな意味 があったのでしょう。
そうして、M-Vはペイロードを太陽同期軌道にのせて、彼岸の日に光の国に帰っていったんだなあと思いました。
ここで、やめるつもりでしたが、三つ付け足します。
「はるか」のプロジェクトは平成元年(1989年)に始まって今年の3月に終了しました。17年の長きにわたるプロジェクトでした。VSOPというスペースVLBIプロジェクトを担った「はるか」でした。この春、「はるか」を発展させたスペースVLBIプロジェクトを担うVSOP-2計画〈衛星名Astro-G)が認められました。Astro-GはM-Vで打ち上げられる想定のもとで提案されたプロジェクトです。そのM-Vは今はありません。
今回は、M-Vの最期の飛行について感傷的に述べるだけにとどめます。
打上げの際に、アメリカ大使館の公使と科学官のお相手をしました。
「打上げ前の風の制限スピードは?」
「さあ、わかりません」
きっちりとルールをつくると足かせになるので目安はあるけど制限はないのだと、確かめてから答えました。
「日本は一般に条件がきびしいのです。魚屋さん、台風、地震、ツナミ、 それに、」
「それに?」
「ゴジラもきますから、」
科学官は大笑いしてから答えました。
「ゴジラは今はニューヨークで暴れていますよ」
前の週に長崎の学校で授業をする機会がありました。原爆の爆心地に立って、凄まじい爆発と限りない残虐さをおもって、からだが熱くなりました。
上のような冗談の中にも、わたしは原爆を忘れているわけではありませんでした。
打上げの翌日はポーランドでの研究会に発ちました。ポーランドは百数十年をロシアの占領下に、独立後さらにロシア、ドイツ、オーストリアに分割されたという悲劇的な国家でした。町で出会う人たちは落ちついて品があると思いました。町にあった教会三つに入ってみました。皆さんは静かで敬虔でした。
江戸末期から明治の始めに来た外国人が日本人の高い品性について触れているとききます。わたしたちは少しでも阿弥陀経のいうような社会に近づけたらと夢のように思いました。
シベリアを飛行機で越えて帰るとき、窓にたって下を眺めていると、親日家らしいロシア人が親切に日本語で話しかけてきました。
「懐かしい日本です。もうすぐです」
わたしはこのとき、第2次世界大戦後のロシアによる不条理なシベリア抑留を思い出していました。
地球には、そんな歴史がいくつもあるのだなあと、やりきれない想いでした。
(平林 久、ひらばやし・ひさし)
VSOP-2計画
⇒
http://wwwj.vsop.isas.jaxa.jp/vsop2/
M-V-7号機によるSOLAR-B衛星の打上げ成功!
⇒ http://www.isas.jaxa.jp/j/snews/2006/0923.shtml
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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※
ISASメールマガジン 第110号 【 発行日− 06.10.17 】
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★こんにちは、山本です。
10月も半ばを過ぎ、相模原や東京でも朝晩は涼しくなってきました。
街へ出ると、私の感覚では真冬のような装いの人たちを多く見かけます。
本当に寒くなったら何を着るんでしょう?
先週末は、内之浦宇宙空間観測所の一般公開で、相模原からも「ひので」の打上げから帰ってきたばかりの人たちも応援に行っていました。入場者は、相模原キャンパスと比べてはいけないような数だったようですが、「参加者の満足度は100%」との報告もきています。
今週は、宇宙情報・エネルギー工学研究系の平林久(ひらばやし・ひさし) さんです。
── INDEX──────────────────────────────
★01:M-Vはウルトラマンのように逝きました
☆02:JAXAコラム「星の誕生と死のドラマ」
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★01:M-Vはウルトラマンのように逝きました
M-Vには特別な思い入れがあります。「はるか」が1号機で打ち上げられたからです。1号機の打上げ前の2週間くらいからは、食べ物の味もわからず、生きているという実感がありませんでした。
最後のM-Vの打上げをみました。お客さんと一緒にみるという役でした。
今回の打上げは、M-Vをただ心を込めて見送るつもりでいったのです。
鹿児島空港から内之浦までの道辺に万寿紗華の花がたくさん咲いていました。赤だけでなく黄色も白もあっておどろきました。
葉っぱがなくて地中からにゅっと出て赤い色をだしている彼岸花は、故郷ではめったに見ませんでした。それで、ちょっとこの世のものでないような感じがしていました。母が亡くなったあとで、この花を見ると、その茎が根をとおしてあの世と通じているように思えました。母の死のあとの悲しみがおさまっていくなかで、そういう想いはおさまっていきました。
内之浦からの帰りのタクシーの運転手さんに聴いてみました。
「あの道端の花はこちらではなんといいますか」
「彼岸花って言うね。彼岸の頃に咲くからね」
「そうですか。わたしは信州の山の中の出だけど、やはり彼岸花っていいましたねー」
帰りの鹿屋からのリムジンバスのなかでも、目は彼岸花を追っていました。彼岸花ってM-Vに似てるなあと思い始めました。あのウルトラマンのような配色と思いきりな単純さ、それがどこかアンバランスなかたちと配色の彼岸花を思わせました。M-Vはゆっくりとではなく、シュワッチと最初から頑張って飛んでいきます。あ、M-Vはウルトラマンだなぁ。そう、思いました。彼岸花は噴射を思わせるなあとも。
考えてみると、M-Vはぼくらにとってウルトラマンだったのかもしれません。M-Vが無事にとびたってよかったといっそう思いました。ミューシリーズの最期なんだから絶対に立派に飛び立って欲しかったのです。
帰りの飛行機のなかの新聞に、「彼岸」について小さな記事がありました。
平安時代、西方に理想の世界があると説いてやってくる僧たちを、お彼岸さんと呼んだのだそうです。そのころは、陽が真西に沈む日は、だいじな意味 があったのでしょう。
そうして、M-Vはペイロードを太陽同期軌道にのせて、彼岸の日に光の国に帰っていったんだなあと思いました。
ここで、やめるつもりでしたが、三つ付け足します。
「はるか」のプロジェクトは平成元年(1989年)に始まって今年の3月に終了しました。17年の長きにわたるプロジェクトでした。VSOPというスペースVLBIプロジェクトを担った「はるか」でした。この春、「はるか」を発展させたスペースVLBIプロジェクトを担うVSOP-2計画〈衛星名Astro-G)が認められました。Astro-GはM-Vで打ち上げられる想定のもとで提案されたプロジェクトです。そのM-Vは今はありません。
今回は、M-Vの最期の飛行について感傷的に述べるだけにとどめます。
打上げの際に、アメリカ大使館の公使と科学官のお相手をしました。
「打上げ前の風の制限スピードは?」
「さあ、わかりません」
きっちりとルールをつくると足かせになるので目安はあるけど制限はないのだと、確かめてから答えました。
「日本は一般に条件がきびしいのです。魚屋さん、台風、地震、ツナミ、 それに、」
「それに?」
「ゴジラもきますから、」
科学官は大笑いしてから答えました。
「ゴジラは今はニューヨークで暴れていますよ」
前の週に長崎の学校で授業をする機会がありました。原爆の爆心地に立って、凄まじい爆発と限りない残虐さをおもって、からだが熱くなりました。
上のような冗談の中にも、わたしは原爆を忘れているわけではありませんでした。
打上げの翌日はポーランドでの研究会に発ちました。ポーランドは百数十年をロシアの占領下に、独立後さらにロシア、ドイツ、オーストリアに分割されたという悲劇的な国家でした。町で出会う人たちは落ちついて品があると思いました。町にあった教会三つに入ってみました。皆さんは静かで敬虔でした。
江戸末期から明治の始めに来た外国人が日本人の高い品性について触れているとききます。わたしたちは少しでも阿弥陀経のいうような社会に近づけたらと夢のように思いました。
シベリアを飛行機で越えて帰るとき、窓にたって下を眺めていると、親日家らしいロシア人が親切に日本語で話しかけてきました。
「懐かしい日本です。もうすぐです」
わたしはこのとき、第2次世界大戦後のロシアによる不条理なシベリア抑留を思い出していました。
地球には、そんな歴史がいくつもあるのだなあと、やりきれない想いでした。
(平林 久、ひらばやし・ひさし)
VSOP-2計画
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M-V-7号機によるSOLAR-B衛星の打上げ成功!
⇒ http://www.isas.jaxa.jp/j/snews/2006/0923.shtml
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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※