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ISASメールマガジン 第88号
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ISASメールマガジン 第088号 【 発行日− 06.05.16 】
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★こんにちは、山本です。
先週は梅雨時のような日が続きました(『走り梅雨』というそうです)。気温や気候の変化が大きくて風邪など引かれていませんか?
私は、のどの調子が悪くなって咳も出て、イロイロな「のど飴」のお世話になりました。もう少し甘くなくて、舌が荒れなくて、飽きの来ない「のど飴」はないものでしょうか。
今週は、宇宙輸送工学研究系の羽生宏人(はぶ・ひろと)さんです。
── INDEX──────────────────────────────
★01:「ちょっと宇宙(そこ)まで」は実現するか?
☆02:めざせ到達高度世界記録、気球BVT60-2号機で挑戦
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★01:「ちょっと宇宙(そこ)まで」は実現するか?
宇宙輸送工学研究系の羽生です。今回はやわらかい話題にしてみました。
相模原キャンパスにいる学生に「子供の頃の夢って何でしたか?」と問われて、「はて、なんだったっけ?」と思わず首を傾げてしまいました。その質問が気になって、改めて記憶を辿ってみたのですが、やはり全く思い出せませんでした。そんなわけで、私は我が家のクローゼットの奥に隠れている、引越しの荷物整理・処分の荒波から運よく逃れて残っている幼少期の記録に目を向けてみました。
幼稚園では、絵を描いたり工作をしたりしますが、卒園間近のころに描いた「しょうらいのゆめ」という絵がアルバムの表紙になっていました。そこにはなんとロケットが整備棟から出て、今まさに飛んでいかんとする様子が描かれていました。その脇に金魚鉢をひっくり返したようなガラスのヘルメットを被り、宇宙服様のものを着た自分も描き加えてありました。内之浦のMロケット整備塔、ランチャそしてM-Vロケットに似たその絵を見て、今関わっている仕事が幼少期の夢にかなり近いものであったことに気が付きました。そして、宇宙はやはり夢のある仕事でなければいかんなぁ、と改めて感じました。
月面に人が足跡を残したのは1969年7月、私が地球に産み落とされた年でもあります。私が絵を描いていたころは、宇宙開発も次の時代に移行しつつあるころで、おそらくスペースシャトルは計画初期段階のころだったはずです。ですから、当時の宇宙開発のシンボルはロケットだったのです。今の子供がイメージする宇宙開発は一体どんなものなのでしょうか。やはりスペースシャトルがそのシンボルでしょう。運用開始から25年も経っていて、まだそのイメージが変わっていないのは、この分野におけるひとつの壁がそこにあることを示しているとも言えます。
日本人が宇宙に行くことはご存知の通りすでに達成されています。しかし、日本人が作った乗り物で宇宙に行くことはまだ出来ていません。日本独自の宇宙輸送機に関する議論は、いろんなレベルでなされていると思います。国内で多くの研究が成果を挙げる一方で、飛ぶもの(乗り物)の姿はなかなか見えてきません。時代はH-IIAロケット、M-Vロケットなどの信頼性向上を目指しつつも、その先にある「日本人が日本人を宇宙に運ぶ」技術の構築を真剣に考えてもいいんじゃないかな、思っています。
「宇宙に行ってどうすんだい?」なんて夢のないことを言ってはいけません。登山家が「そこに山があるから」と言って山頂を目指すように、私たちも目指していいんじゃないでしょうか。
「そこに宇宙があるから」と言って。
(羽生宏人、はぶ・ひろと)
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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※
ISASメールマガジン 第088号 【 発行日− 06.05.16 】
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★こんにちは、山本です。
先週は梅雨時のような日が続きました(『走り梅雨』というそうです)。気温や気候の変化が大きくて風邪など引かれていませんか?
私は、のどの調子が悪くなって咳も出て、イロイロな「のど飴」のお世話になりました。もう少し甘くなくて、舌が荒れなくて、飽きの来ない「のど飴」はないものでしょうか。
今週は、宇宙輸送工学研究系の羽生宏人(はぶ・ひろと)さんです。
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★01:「ちょっと宇宙(そこ)まで」は実現するか?
☆02:めざせ到達高度世界記録、気球BVT60-2号機で挑戦
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★01:「ちょっと宇宙(そこ)まで」は実現するか?
宇宙輸送工学研究系の羽生です。今回はやわらかい話題にしてみました。
相模原キャンパスにいる学生に「子供の頃の夢って何でしたか?」と問われて、「はて、なんだったっけ?」と思わず首を傾げてしまいました。その質問が気になって、改めて記憶を辿ってみたのですが、やはり全く思い出せませんでした。そんなわけで、私は我が家のクローゼットの奥に隠れている、引越しの荷物整理・処分の荒波から運よく逃れて残っている幼少期の記録に目を向けてみました。
幼稚園では、絵を描いたり工作をしたりしますが、卒園間近のころに描いた「しょうらいのゆめ」という絵がアルバムの表紙になっていました。そこにはなんとロケットが整備棟から出て、今まさに飛んでいかんとする様子が描かれていました。その脇に金魚鉢をひっくり返したようなガラスのヘルメットを被り、宇宙服様のものを着た自分も描き加えてありました。内之浦のMロケット整備塔、ランチャそしてM-Vロケットに似たその絵を見て、今関わっている仕事が幼少期の夢にかなり近いものであったことに気が付きました。そして、宇宙はやはり夢のある仕事でなければいかんなぁ、と改めて感じました。
月面に人が足跡を残したのは1969年7月、私が地球に産み落とされた年でもあります。私が絵を描いていたころは、宇宙開発も次の時代に移行しつつあるころで、おそらくスペースシャトルは計画初期段階のころだったはずです。ですから、当時の宇宙開発のシンボルはロケットだったのです。今の子供がイメージする宇宙開発は一体どんなものなのでしょうか。やはりスペースシャトルがそのシンボルでしょう。運用開始から25年も経っていて、まだそのイメージが変わっていないのは、この分野におけるひとつの壁がそこにあることを示しているとも言えます。
日本人が宇宙に行くことはご存知の通りすでに達成されています。しかし、日本人が作った乗り物で宇宙に行くことはまだ出来ていません。日本独自の宇宙輸送機に関する議論は、いろんなレベルでなされていると思います。国内で多くの研究が成果を挙げる一方で、飛ぶもの(乗り物)の姿はなかなか見えてきません。時代はH-IIAロケット、M-Vロケットなどの信頼性向上を目指しつつも、その先にある「日本人が日本人を宇宙に運ぶ」技術の構築を真剣に考えてもいいんじゃないかな、思っています。
「宇宙に行ってどうすんだい?」なんて夢のないことを言ってはいけません。登山家が「そこに山があるから」と言って山頂を目指すように、私たちも目指していいんじゃないでしょうか。
「そこに宇宙があるから」と言って。
(羽生宏人、はぶ・ひろと)
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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※