No.273
2003.12

<宇宙科学最前線>

ISASニュース 2003.12 No.273 


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次世代X帯ディジタルトランスポンダーの開発 

宇宙情報・エネルギー工学研究系 戸 田 知 朗  


 太陽系を旅するはるか彼方の人工物を想像しても,少しも不思議に思われない時代にあってすら,目に見えないその人工物からの便りが定期的に手元に届くとしたら,何かしら感じるものがあるに違いありません。現実には,人工物たる探査機は設計された通りに,無味乾燥な値の羅列で素っ気ない便りを送ってくるだけかもしれなくても,その忠実さは時に健気にさえ見えてくるものです。そんな錯覚も,探査機との通信があって初めて意味があります。

 探査機の耳目は,空気のない世界も伝わる電波を頼りにしています。彼らは,私たちの世界に携帯電話が普及するずっと以前から,この電波だけを唯一の手段として地球とつながってきました。その意味では,打ち上がってしまってからの探査機にとっては,通信こそが文字通り命綱であり,プロジェクトを成功させるためには,私たちにとってもそれは変わりありません。思えば,宇宙にたった独りぼっちでいる寂しさは,探査機に勝るものはないのではないでしょうか  深宇宙通信は,さながら孤独な探査機のつぶやきに耳をそばだてて,じっと“聞き入る”ことかもしれません。もちろん,私たちの耳には“聞こえない”のですが。


トランスポンダーの開発

 探査機に搭載されている通信機は,トランスポンダー(Transponder)と呼ばれています。これは,トランスミッター(Transmitter)とレスポンダー(Responder)を掛け合わせた造語です。問い掛けに応じて答えを投げ返してくれるもの,といった意味です。探査機に限らず,衛星と名の付くものは皆,このトランスポンダーを持っています。私たちが地球にいながらにして,彼らの身辺で起こる出来事を逐一知ることができるのは,この装置が機能するおかげなのです。言うまでもありませんが,通信とは相手があって成立するものです。トランスポンダーの相手とは,探査機の言葉の通訳代わりをしてくれる,地上局に設置された送受信機のことです。通信の話題は,この両者を対にして語られねばなりませんが,本稿はトランスポンダーの解説ですので,背景に地上局の送受信機が常にあることを忘れないでくださいとだけ付記しておきましょう。

 トランスポンダーは,探査機にとってそれほど重要な装置であり,その歴史は宇宙開発の歴史そのものに重なるほどです。そして,多くの探査機技術同様,研究開発を経ながらも往時とさほど変わらない姿で生き残ってきました。現在では,信頼性の見本のような完成された技術です。従前,ISASの科学衛星・探査機の開発にあたっては,トランスポンダーもその都度,新しく作り直されるものでした。宇宙科学を目的とする挑戦が,それぞれに特殊であって個性的であるので,通信機もまた個性を反映した仕様が求められたからでした。私たちが目にする美しい天体画像が明らかにしてくれているように,宇宙が多種多様な姿を持つからには,それは自然なことです。

 しかし,21世紀となり,ISASの宇宙科学は深宇宙探査へと大きく踏み出しました。「のぞみ」から「はやぶさ」と続いて,特別な実験という垣根がはらわれ,太陽系探査をめぐる新しい提案が矢継ぎ早に上がるようになりました。それらの提案のどれをとっても,特殊性はさらに一通りではないでしょう。こういう局面にあって,今まで通りに過去の技術を踏み台にして,着実な一歩を積み上げていくだけでは,新しい計画に対応しきれなくなってきました。ISASでは,新しい時代には,深宇宙探査にも対応した新しいトランスポンダーを作る必要性が強く認識されたのです。

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次世代の原型“幼虫”


図1  X帯ディジタルトランスポンダー機能評価用試作機


 図1の写真は,次世代を担う新しいX帯トランスポンダーの姿です。これは,新たに付与される基本機能の検証のために,試作機として製作されました。まだ開発段階の初期のもので,衛星・探査機に搭載される資格は持っていませんが,機能・性能はまさしく最新です。段重ねの重箱のような姿に,遠く離れた探査機の通信に必要なものが詰め込まれています。表紙はベースバンド部(下記参照)のふたを開け,ケーブルを接続して試験を行っている様子です。表1種類のトランスポンダーの仕様を比較していますが,この試作機のサイズは15cm X 15cm X 9.45cm,アルミニウム材の構体で,重量は3.4kgとなっています。これまでのトランスポンダーに比べて小型化・軽量化を意識しています。しかし,さすがに現在の技術の粋たる携帯電話のようにはいきません。右から左へと技術移転を図る上で,宇宙技術の特殊性が,やはりコスト面で障害になりますし,何より信頼性の評価が問題になります。


  ※開発中のものは送受信部一体の構成となっている。
  はやぶさ用X帯トランスポンダーの受信機は冗長構成を兼ねて
  2台で1台の機能をカバーするようになっている。


 各段の構成は上から,受信電波の復調をして信号の同期再生を行うベースバンド部(第段),アンテナから送受信する電波を変復調する高周波部(第段),変復調に必要な周波数関係の電波を作る周波数合成部(第段),トランスポンダーの動作に必要な電圧を作る電源部(第4段)に分かれます(以下,送受信という言葉は,トランスポンダーから見た立場で使用します)。ベースバンド部はまた,受信電波と適当な分数比(880:749)の周波数関係になる位相のそろった(コヒーレントという)電波を再生する機能も担っています。新しいトランスポンダーの特長をまとめると,次のようになります。

 ・深宇宙探査用のX帯周波数チャンネルに対応
 ・深宇宙での測距(距離計測のこと)回線品質の改善
 ・受信感度の改善
 ・ベースバンド部のディジタル信号処理化

これらのことから,私たちは新しいトランスポンダーを「X帯ディジタルトランスポンダー」と呼んでいます。

 送受信をX帯とするISASのトランスポンダーとしては,これまでには5月に打ち上げられた深宇宙探査機「はやぶさ」しかありません。これ以後の深宇宙探査に認められる周波数チャンネルはX帯より高い周波数とされています。「X帯」という言葉を断りなく使ってきましたが,周波数8GHz/7GHzの電波をそう呼ぶ習わしです。したがって,X帯深宇宙チャンネルへの対応は,将来にわたってこのトランスポンダーが採用されるためには外せない条件です。

 また,X帯のトランスポンダーは「はやぶさ」に搭載されたわけですが,2AU(AUは天文単位。1AUは地球と太陽の平均距離で約1億5000万km)を超える深宇宙探査では測距回線がまずボトルネックになること,すなわち,探査機の軌道決定が困難になることが分かっています。探査機までの距離を測定するためには,地上から測距信号を載せた電波を送出し,探査機からトランスポンダーを経由してブーメランのように折り返される電波を地上で受信するまでの時間を計測します。今までの測距方式は,探査機のトランスポンダーではただ折り返すだけでした。けれども,新しいトランスポンダーでは,受信した測距信号を再生して品質を回復した後,再変調して送り返す方式を採用しました。従来の手法では電波に載せられた測距信号は,往復の間に品質が損なわれることになりますが,新しい方式では品質の低下は片道分で済む勘定です。図2は両方式を比較した実験結果です。従来の方式(図2上段)では,雑音に埋もれて測距信号パターンが判然としない状態であったものが,新しい方式(図2中段)によれば元の信号がきれいに再現されている様子がよく分かります(再生信号のピーク位置と送信パターン[図2下段]の高低の対応を見てください)。これにより,アンテナ指向や探査機の姿勢制御の手間をかけずとも,測距回線は5AUの距離までも成立できる見込みです。これは,将来的には木星探査が射程に入る実力といえましょう。


図2 測距信号再生方式の効果。
同条件で受信測距信号パターンを観測したもの。
上段:従来の測距方式,中段:測距信号再生方式,下段:送信信号パターン。


 遅ればせながら,ディジタル信号処理は時代の要請といえるかもしれません。ようやく消費電力と費用に見合う,宇宙環境でも使用可能な部品調達が可能になったわけです。ディジタル化による恩恵は受信感度の改善に加え,アナログのマイクロ波回路に付き物の調整過程が不要になるので,コスト低減にもつながります。先ほどの測距信号再生方式を導入して測距回線を改善した後は,探査機から地上局への通信回線が新たな限界となるため,ここでの受信感度の改善は大変意義のあることです。新しい誤り訂正符号との組み合わせで,通信回線も5AUの距離まで成立できるでしょう。以上の特長はすべて,図1にある機能評価用の試作機を用いた実験を通じて確認することができました。

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“さなぎ”を作る計画,そして蝶へ

 新型トランスポンダーを作る計画は,2000年度に始まりました。一昨年度までの2年間で,ここまでに述べたような新機能を網羅する実証実験を完了しました。そして,その後の3年半で搭載性を保証するプロトタイプの製作を行う予定です。このプロトタイプは,実証試験に供された試作機をベースに開発されます。本稿が皆さんの目に留まるころには,搭載に必要な資格を満たす使用部品の選定,他搭載機器とのインターフェースの確定,ディジタル信号処理回路の搭載仕様品への適応などを終えて,具体的な惑星探査プロジェクトを挙げて目標を絞る段階にあるでしょう。ディジタル信号処理を含むベースバンド部のプロトタイプの開発はすでに完了して,これからは高周波部,周波数合成部,電源部の開発を行う予定だからです。機能評価用試作機との違いは,搭載可能部品への移行と外部機器とのインターフェース仕様を見直したことで,試作機の段から段構成に変わることが決まっています。その他の違いは,表1にまとめた「はやぶさ」の搭載品,試作機,これからのプロトタイプモデルの比較を参考にしてください。開発は順調です。

 私たちのトランスポンダーは,いつお披露目を飾るのでしょうか  金星へ  水星かもしれません。いずれにしても,宇宙航空研究開発機構(JAXA)にとって最初の深宇宙探査機になることを希望しています。今のところ,地上で理解する探査機の言葉は,穏やかに唱える念仏のように“聞こえ”ます。でも,年々進化していくIT技術のその先には,はるか彼方の探査機との間に禅問答が生まれるやもしれません。宇宙科学は,人間の世界観そのものを揺さぶる強い力を持っています。探査機の伝える言葉がその世界観に違いないなら,深宇宙通信は深淵そのものではありませんか。

(とだ・ともあき) 


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