|
---|
No.267 |
賢兄愚弟の37年間 〜松尾所長を送る〜ISASニュース 2003.6 No.267 |
|
---|
|
「今なら糸川先生に会えるからついて来るように」大学院学生として駒場に来てから1ヶ月,神没鬼没と言われた指導教官の御尊顔を拝することなく過ごしていた昭和41年(1966年)5月のある日,松尾先輩にこう言われたのが始まりで,以来37年間,人生の半分以上をずっと賢兄の後ろを愚弟がついていく形になりました。 当時の糸川研では,大学院学生もチームの中心となって衛星打ち上げ計画に邁進していました。1966年はちょうど重力ターン方式による衛星打ち上げを実証すべくL-4S打ち上げが始まった年で,D2の松尾先生はまさしく軌道計画,軌道計算の責任者でありました。その頃,駒場13号館の2階に国産最新鋭コンピュータHIPAC103が導入され,軌道計算に使われ始めました。最新鋭と言っても,大きさは会議室一杯を占領,メモリーはたったの4K,屋上の空調機をフル稼働しないと熱でダウン,演算速度といえばラムダのフライト1秒分を計算するのに10分以上かかるといった代物でした。これを改善すべく導入されたのが,いわゆるハイブリッド計算機で,3次元6自由度の計算のうち3自由度分即ち飛翔経路はデジタル部が,残り3自由度分即ち姿勢計算はアナログ部にやらせるというものでした。 ソフトには滅法強いがハードには弱い松尾先生にとって,デジタル部から何10本もの線をパッチ・ボードを介してアナログ部に繋ぐなどというのは迷惑千万ということもあったのでしょう,下請けがM1の私に回ってきました。アッセンブラ言語の勉強から始め悪戦苦闘しましたが,結果は惨憺たるものでした。原因は,デジタル部の演算速度を上げるためにはサンプリングを粗くせざるを得ず,そうするとその間のアナログ計算の誤差が大きくなり演算が発散してしまう,という始末で,L-4S-1打ち上げでKSCにいる松尾先生にギブアップを告げたところ,「そうか,じゃあしょうがないな」で終わりでした。 この計算が失敗すれば,ラムダが上がらないのではないかと僭越にも思って必死だったのですが,当然ながら肝腎要の軌道計算はとっくに出来ていて,ハイブリッド計算はよく言えばバックアップ,或いは試行実験プラス新入生の試験又は訓練だったのでしょう。これが松尾先生によるシステム工学の基本の一つ「常に先を読め,常にバックアップを」の実践教育その1でした。松尾先生が碁,麻雀,スクラブルに強いのも,まさにこれを実践されているからでありましょう。ただパチンコだけはシステム工学を以ってしても克服出来ないようにお見受け致しました。 次の実践教育はそのすぐ後,1966年10月31日のことでした。その日,Mロケットの処女飛行となる1段目だけに燃料を入れたM-1-1の打ち上げがあり,私はM2の高野先輩と結託,学業をほったらかしてKSCに行っていました。真新しいM整備塔全体がぐるりと旋回,発射,雲一つ無い秋空にMロケットが吸い込まれていくのを見て興奮した私は,駒場の松尾先生に「上がりました,上がりました」と電話したところ「あー,わかってる」と素っ気無いお返事。この短い言葉を分析すると
(1)情報は既に得ている, 松尾先生はこのように短い言葉で受け手に考えさせる特技をお持ちで,これは間違いなく糸川先生譲りだろうと思います。「情報を素早く的確に掴んでうろたえない」という考え方はその後,大小様々な失敗や不具合発生時において大事な教訓となりました。宇宙研きっての映画通松尾先生と日本映画の最高傑作という点で意見が一致している(と思っていますが)「七人の侍」の島田勘兵衛の台詞「うろたえるな,誰か野武士を見た者はおるのか」は,以後何かしら問題が起きた時の私と松尾先生の合言葉になり,一方大事な情報を知らなかった場合には「特落ち」と称して反省していました。 1967年3月20日,1,2号機を続けて失敗した後のL-4S-3の打ち上げ準備中,突然糸川先生は辞任され,結局御自分の手懸けられた我が国初の人工衛星「おおすみ」誕生の場におられなかった訳ですが,その36年後松尾先生が所長としては衛星打ち上げ成功の場に立つこと無く突然辞任されることになったのは運命の悪戯でしょうか。しかし直後の5月9日,M-V-5による「はやぶさ」打ち上げ成功に立ち会って戴くことが出来,愚弟としてはホッとしております。 「はやぶさ」成功記念寄せ書きに署名後,「おおすみ」の寄せ書きを見上げて松尾先生がポツッと言われた「もうこの中で現役は君くらいになってしまったなあ」の含蓄は未だ解明できていませんが,今後は宇宙開発委員として日本の宇宙開発全体を現役として引張っていって下さることを信じてこれからもついて参ります。 (上杉 邦憲) |
|
---|