No.267 |
ISASニュース 2003.6 No.267 |
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私の人生と宇宙研衆議院議員 小 野 晋 也私は,1978年4月から1980年3月までの2年間,修士課程の学生として,松尾研究室で多くの方々のご指導を頂きました。時丁度,アメリカでスペースシャトルが運行される直前の時期であり,日本の宇宙開発の進路に不透明感が漂う中,人生行路に迷い,そこで偶々,松下幸之助氏が創設された松下政経塾に入塾した結果,その後,政治の道に進むこととなり,現在,衆議院議員として3期目の仕事を行っています。今稿は随想コーナーであり,何を書いても良いということですので,“私の人生と宇宙研”といった少し漠然としたテーマで,思いつくままに一文をまとめてみたいと思います。 私は,自分自身のこれまでの歩みを振り返る時,人生というものは,基本的には,神様のいたずらとも言うべき偶然の巡り合わせの中で,動いてゆくものだという気がしています。そこに本人の知恵と努力によって,多少の彩りが与えられてゆくといった感じでしょうか・・・。 先に,スペースシャトルのことを述べましたが,当時,アメリカの宣伝は相当なものでした。NASAは,“スペースシャトルを使うと,低軌道への衛星を使い捨てロケットに較べると20分の1から60分の1のコストで打ち上げることが出来る”と,センセーショナルな発表を続けていました。すると,これまで例えば100億円かかった衛星打ち上げが,たったの5億円ないし2億円で出来るということになるわけですから,当時の宇宙研の中でも,特に45号館,56号館に集まっていた機体部門の人たちは,ほとんどロケットの独自開発路線には悲観的で,冗談半分に,“もう次の就職先を探さないとな”などと語り合っている時期でした。 私は,多感な中学2年生の時にアポロ11号の月面着陸という人類史上の偉業に接して以来,ロケットの研究を自分のライフワークにしたいと心に決めて,それ以外のことはほとんど何も考えていなかったものですから,ここで大きく迷ってしまったのでした。そこに,松下幸之助氏の夢を掲げた松下政経塾の話が飛び込んできたものですから,私も好奇心とあきらめが相半ばする気持ちで,この塾を受験したところ,塾としても,科学技術の分かる人間も必要だとして,採用されたという事の顛末でした。 結果的には,その後27才の時に松下政経塾第1号議員として,愛媛県議会議員に当選することになるのですが,その話題性もあって,当選決定の時には,随分多くの全国紙や雑誌の記者が取材に押し寄せてきました。彼らが開口一番,必ず質問を投げかけてきたのは,“あなたは,東大宇宙研でロケットのエンジニアを目指していたというのに,何故松下政経塾に入り,政治の道になど入ることになったのですか”ということでした。私からは,多くの人の応援を頂いて当選したところですから,“これは全て神様のいたずらで,偶然の産物です”とも言うわけにもいかず,科学技術が公害問題や人間阻害等の問題を生み出しているから,それらの問題解決を目指してこの政治の道を志したのだなどと,随分肩に力の入ったことをお話申し上げたのですが,結局記事になったのは,母親の一言。 “全く,日本のロケットというのは,どこへ向けて飛んでゆくものやら分からないですね!”(失礼!) その時から数えれば,この春で政治人生も20年,こんな出自のこともあって,かの小泉純一郎総理からも“私はよく変人と言われるが,私以上に変人なのが小野君だ”と言われる始末。しかし,やはり東大宇宙研でロケットのシステム研究をしていたという経歴は,他の国会議員から見ると大変な葵の紋章であるらしく,お陰で,科学技術分野のことは,1年生議員の頃から私が発言すると,幹部皆さんも一目置いて聞いて頂きました。(勿論,これは通常の議論におけるものであり,予算の分取り合戦のようなドロドロとした血みどろの戦いになると,やはり政治キャリアを積んだ方々の腕力の世界なのですね。) 今,振り返ってみると,人生の中で宇宙研時代というのは,とても思い出深い期間でした。少し前にも,旧宇宙研(今の先端研)の近くに行く用事があったので,久しぶりにその構内を歩いてみたのですが,随分風景が変わった部分がある半面,門の辺りの大木,時計台,45号館,56号館,また,サッカー大会をしたグランド,テニスコート等,当時色々な人と共に過ごした日々が甘酸っぱい感慨と共に思い出されました。 私が去った後,宇宙研は文部省の管轄下に移り,また相模原に移転をして,更に,もうすぐ宇宙開発事業団や航技研と一体となるなど,随分変化し続けていますが,私にとっての宇宙研は,やはり駒場時代の宇宙研であり,人生の多くのものを学んだ場でもありました。 この誌面をお借りして,当時お世話になった多くの方々に深く感謝申し上げる次第です。 (おの・しんや) |
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