No.263
2003.2

ISASニュース 2003.2 No.263

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気球,世界を結ぶ

矢 島 信 之  

 自分の定年を意識し始めた頃,親しくしていた外国の気球関係の友人も次々と定年を迎えて行くのに気付いた。その方々は,60年代に宇宙機関が科学気球を組織的に開始した第一世代の後を受け,80年代中葉から90年代を通じ,国際化,大規模化に尽力された。一つの時代の区切りを感じる。

 スウェーデン北部の宇宙基地Esrangeの所長であったJ. Englundさんは,気球以外の分野でも宇宙研との繋がりが深い方である。私は,1996年に行われた大規模な北極圏での気球キャンペーンが縁となった。翌年にスウェーデンでESAの観測ロケットと気球に関するシンポジウムが開催された時,事務局長役のKemiさんと図り私を招待して下さった。これが,以後活発化したヨーロッパや米国での研究発表の端緒となった。その頃には,三陸で気球を打ち上げるという実務から解放され,気球自体の基本的研究に専念できるようになっていた。それなりの結果も出せていたので,大変よいタイミングを与えて下さったと感謝している。

 フランスの気球基地の所長P. Fauconさんともキルナでの実験が縁である。氏は,それまで“フランスの気球”であったものを,ESAの気球に発展させた功労者といえる。フランス語以外話そうとしないスタッフに対し,国際性の重要さを説き,率先して英会話の勉強に励んだと聞く。

 J. Randさんは気球を製作するWinzen Int.社の社長であった。だが,経営者と言うより,元Texas A & M 大学の教授という学者肌の方であり,米国気球の理論と実践の両面にわたるリーダー的存在であった。残念ながら,1993年に,気球製造体制の合理化が図られRaven社に買収されてしまい,別れてWinzen Engineeringなる小さな会社を設立して活動を続けられた。不本意であったであろう。私のスーパープレッシャー気球の研究を高く評価して下さり,1999年AIAAのコンファレンスでは,ご自身の発表の中でまで紹介して下さった。私の発表が最優秀論文に選ばれたのも,Randさんと,次に紹介するSeelyさんの後押しがあったのではないかと思っている。

 そのL. Seelyさんは,Winzen社からRaven社に移った方で,工場長の立場である。化学が専門で,気球フィルムの権威である。ジャズバンドの仲間を持ち,100kgを越える巨体で弾くベースの腕は相当なものである。今春,心臓を痛めたとのメールをもらって驚いた。幸い危機は脱したとのことでほっとしている。早く完全回復し,気球,飛行船グッズが所狭しと並び,博物館と自称する工場のオフィスに復帰してほしいものである。

 D. Bawcomさんは,米国の気球基地の所長であった。初めてそこを訪れた時,70年代の有名な大型気球天体望遠鏡計画,“Stratoscope II”,用に作られた大きな建物が,論文で見た通りに残っていて感激した。私の気球への関わりは,望遠鏡の方向制御に始まったからである。3年程前に所長を退かれて間もなく,奥様を亡くされたと伝え聞き,お悔やみのメールを出そうかと逡巡しているうちに時が過ぎてしまった。最近,若く,しかも億万長者の女性に見込まれて再婚されたと聞いた。当然,今もお元気である。

 まだまだ記したい多くの人がいるが紙面がない。最後に,落としてはならない人がいる。長く三陸大気球観測所の事務主任であり,昨年退職された小松錦司さんである。上記の外国の友人達が来日した折りには,基地近くの小松邸を必ず見学コースに加えた。築100年を越える格調ある家で,山野草が植えられた手入れの良い庭は,裏の杉林から渓流へと続いている。元JPL所長のB. Murrayさんご夫妻を御案内した時には,“これぞ国宝”,と感心された。中尊寺の金色堂を見物してから訪問したのに。その小松邸の前で撮られた写真の一こまを示し,ISASニュースへの最後の筆を置くこととする。

(やじま・のぶゆき) 

左から Seelyさん,Bawcomさん,Kemiさん,小松夫人,
             私 ,Englundさん,小松さん




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宇宙研での36年を振り返って
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