No.245
2001.8

ISASニュース 2001.8 No.245

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売り家と唐様で書く三代目

佐 藤 文 隆  

 久しぶりにこの諺が頭に去来した。これをネタに文章を書くのは,多分,二十年ぶりである。「二十年」とは湯川秀樹が亡くなって二十年目の夏であるということに関連している。あの夏はカリホルニアのバークレーで久しぶりに家族で生活したが,そこから帰って間もなくのことだった。夏休み後の最初の「プログレス」の編集委員会を先生は欠席され,同時に状況が伝わってきた。それからまもなくして大きな波が押し寄せたように,慌ただしい諸事の対応に追われた記憶が鮮明に蘇る。こ,ういう大きな人物が亡くなられると,内部でも外部でも,ある一つの精神の勃興・衰退という枠にはめて,時代の推移というものを見たがるものである。「売家と唐様で書く三代目」という諺に接し,それが気になったのはそうした時期であった。

 ここですこし注釈しておく。まず私は自分を「湯川の三代目である」と思っていることを認識してない人にはチンプンカンだろう。最近の若者には「湯川は素粒子,佐藤は宇宙だから関係ない」などと想像力のない者もおる。昔の話は繰り返さないが,昨年は「伝記映像湯川秀樹」というビデオ映画つくりで奔走し,いまも湯川記念財団の理事長をやっているような人間であることを知れば「三代目」は一目遼然であろう。

 注釈の第二はこの諺の意味である。金に困って家を売りに出さねばならなくなった商家の三代目の旦那が「売家」という貼り紙を書く字が見事な「唐様」である,という意味である。「唐様」とはもちろん中国風の意味だが,ここでは一般の人が触れないような高級文化の素養を指している。江戸の後期に現れた諺のようである。一代目はハングリーなバイタリテイーを発揮して成功し,教養に関心を示す頃には年である。二代目は一代目の期待をもろに受け万事ぬかりなく仕事に精出すが,子供には甘くなる。三代目は物質的,精神的に自由で豊かな環境で育って高級文化を体現するが,商才はだめで商売は傾き,家まで売る羽目になる。諺はこういう世の習いを述べたものである。

 さて,この諺を意識した背景が分かったと思うので,本論にはいる。当時,思ったことは「「売家」と書かない様に精進する」のか,それとも「その時に備えて「唐様」の字を書けるように精進する」のかである。この二つの選択は自明でない。少なくとも唐様にも書けないで「売家」を書く羽目になったら最低だと思った。また,唐様に書く技能があれば,それはそれで身も立つだろう,と。もちろん,この諺は「売家」と書く羽目になるなという警句だろう。しかし,一般に強力な社会が爛熟し,すえた匂いの雰囲気の中で,文化は出現する場合が多い。二十世紀初頭のウイーンを思い浮かべて言っている。

 過去数年,大企業の倒産,産業の交代,など,日本の社会でも従来の価値感を揺るがす出来事が相次いだ。流行のタイムスケールが短くなっているように見える商売という次元で「売り家と唐様で書く三代目」の警句の重点がどちらにあると解釈すべきなのか

 「唐様にいくのを諌める」のか,それとも「次に備えて,唐様を磨け」と言ってるのか,もう自明ではない。「売家せずに,唐様も磨く」などと虫のいい道は中途半端で,「二兎を得ず」になる。

 さて,商売ことはいいとして,科学や学問の世界ではこのことわざをどう読めばいいのであろう。こう言うと「二代目,三代目などという意識がこの世界では間違っている」と反論する者が現れるだろう。「科学は人物中立で誰それの価値感でやってるのでない」と。そういう人を私は「可哀想」だと思う。

(甲南大学理工学部物理学科 さとう・ふみたか) 


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