No.239
2001.2

ISASニュース 2001.2 No.239

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最近の生物学の世界を垣間見て

西 田 篤 弘  

 昨年1月から学術振興会に職場を移して以来,宇宙科学の外にある広い世界に触れる機会が多くなった。各種の委員会や審査会に立会ってさまざまな研究の話を聞き,これまで縁のなかった分野について耳学問をさせてもらっている。

 昨年までは機関誌「学術月報」に先端的な研究の現場を紹介する記事を執筆することが役員の仕事の一部であったために,生物学・分子生物学の研究者にインタビューすることもできた。たいへん多くの生物学者の中から,実験室の中だけで行う研究ではなく,動物や植物の不思議な振る舞いの背後にある分子生物学を対象としておられるお二人を選んで,生物界のマクロの世界とミクロの世界のつながりについて研究の現場を垣間見させていただいた。

 お一人は北海道大学でサケの回遊を研究しておられる浦野明央教授である。よく知られているように石狩川など北海道の川で生まれたサケは川をくだってオホーツク海に入り,ベーリング海とアラスカ湾で成長して2年ないし7年後に母川に戻ってくる。この回遊行動を支配するのはサケのDNAに内蔵されているプログラムである。生物時計が刻む時間と視覚・臭覚などによって得られる情報とに基づいてこのプログラムが順次発現され,サケに航路を教えたり体の機能を新しい環境に適応するように変化させたりする。プログラムに従ってサケの体内で制御信号を運ぶのは化学分子(神経ホルモン)である。遺伝子の発現と神経ホルモンによる制御の両方を視野に入れて回遊運動のメカニズムを総合的に理解しようというのが浦野先生の目論みである。

 もう一人は山村庄亮教授で,定年後も慶応義塾大学で動く植物の研究を続けておられる。植物の運動は三つに分類されるが,その一つはオジギソウなどの就眠運動である。これは運動細胞とよばれる細胞が化学物質の作用によって水とカリウムイオンを取り込んだり失ったりすることによって膨張・収縮し,葉を開閉するためにおきるのであるが,この化学物質(覚醒物質と就眠物質)のバランスを決める酵素の活性を制御しているのは生物時計である。山村先生の目標はこの酵素を精製して構造を決め,タンパクから遺伝子に翻訳することで生物時計の謎に迫ることである。就眠運動による気孔の開閉は植物にとって死活の問題である水の膨圧の調節に関わっている。山村先生は就眠機構を遺伝子組替えによって導入して砂漠に強い植物を作ることを夢見ておられる。

 どちらの場合も遺伝子の発現と化学物質の作用とが一体となっていることに強い印象を受けた。遺伝子の設計図によって生体内に化学物質が生成されるのであるが,その役割は体内のハードウエアを作ったり働かせたりするということに止まらない。化学物質はさらに別の遺伝子を発現させてまた別の設計図を開いて行くという働きも持っている。物理学は法則が統べる世界であるのに対して生物学は情報の世界であるというスローガンを聞いたことがあるが,それはあまりに単純化した割り切り方であろう。生物界は情報伝達の担い手によってさらに新たな情報が掘り出され,ソフトウエアとハードウエアの連鎖が幾重にも続く世界であって,われわれの人体を含めてこの複雑なシステムが安定に存在し得るということに驚かざるを得ない。これは自己組織化の威力を示すものであり,いわゆる複雑系という形で安定な系が実現されていると考えるべきなのだろうか。

 しかし物理屋としてはいつかは第原理による説明ができるのではないかという疑問も残る。約100年前,放射能が発見されてから量子力学が樹立されるまでの間は物理の世界も混沌たる状態だったろう。プランクが量子仮説を思いついたのはやけくそ(an act of despair)だったという。21世紀の生物学がどのように展開してゆくものか,大いに興味をそそられる。

(宇宙科学研究所名誉教授・日本学術振興会監事 にしだ・あつひろ) 


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