|
---|
No.239 |
<研究紹介> ISASニュース 2001.2 No.239 |
|
---|
|
戦前の日本のロケット研究宇宙科学研究所 的 川 泰 宣ペンシルから始まったとされる日本のロケット開発に,終戦直後の断絶があったとはいえ,素晴らしい技術の先達があったことを知ることは,その背景にあった軍国主義の是非を措いても無駄なことではない。 日本のロケット研究の始まりは1931年(昭和6年)にさかのぼる。この年,陸軍と海軍でほぼ同じ頃に兵器としてのロケット研究が開始された。とっつきのいい固体燃料ロケットから始まって,1935年頃から液体燃料ロケットが研究され始めた。
1. 固体燃料ロケットの系譜【陸軍の固体ロケット】陸軍では,もともとは日露戦争末期にドイツから輸入された38式砲(直径75mm,射程8km)を使っていたのだが,他国の大砲が10kmの射程なので,ロケット推進を使って射程を伸ばすことが,固体ロケット研究の動機づけとなった。 かくて1932年に黒色火薬とパラフィンを細身のパイプにつめた4輪のロケット・カーを生み出し,やがて1932年から1938年にかけて38式野戦砲で打ち出すロケット推進の爆弾に進んだ。千葉の富津で,ロケット爆弾のノズルを上に向けて3分の2を地中に埋め込み,ストップ・ウォッチだけが計測器といういでたちの地上燃焼試験を行った後,東京湾に向けて発射した記録が残っている。 黒色火薬は比推力が低いし,煙も吐くしオペレーションも容易ではないが,ロケットの飛翔性能の基礎研究には大いに役立った。風プロフィルの飛翔経路への影響をテストするフライトで,森に飛び込んで火事を起こしたり,民家の屋根を突き破って居間に闖入したりしたエピソードもあった。 1936年頃から陸軍科学研究所で,有翼ロケットの尾部に黒色火薬の燃焼ガスで回るタービンタイプのスピナーをつけて機体にスピンをかける画期的な試みが開始された。加えて陸軍火薬廠でダブルベース(無煙火薬)の実用化が図られ,日本の固体ロケットに一大変革がもたらされたが,主として推薬の製造におけるばらつきが大きく,命中率は通常砲に及ばなかった。 【海軍の固体ロケット】 海軍での研究は軍艦への信号ロケット弾の推力テストから始まり,1934年には後に戦後日本のロケット開発のパイオニアとなる村田勉らによる神奈川・辻堂での打上げに進む。この記念すべき打上げは,黒色火薬を使い尾翼も付けて発射角45度で行われたが,海へ向かわず村田たちの頭上を越えて後の林に突入したそうである。 この失敗で村田は敢然とダブルベースの研究に没入する。ドイツの乏しい資料を出発点として始めた開発が遂に完成を見たのは1934年末から1935年初めのことだった。日本初のダブルベースである。村田が終戦まで改良に献身したこの仕事は,戦後のペンシル・ロケットからの再出発に大きく貢献した。 1941年に第2次世界大戦が勃発し戦線が拡がるにつれて,日本は南太平洋に展開する部隊に配備する通常砲の不足に悩まされ,もっと生産が容易で輸送も楽なロケット砲に注目が集まってきた。
45cm噴進弾とその打上げ 当初機密保持の観点から「ロ弾」と呼ばれていたロケット弾とそのランチャーが,それぞれ「噴進弾」および「噴進砲」として日本軍の制式兵器と認定されるに至ったのは1934年だった。噴進弾にはすべて両面燃焼のダブルベースが採用され,外径20〜110mm,内径5〜10mmの筒状推薬を6〜37本束ねる方式で,直径7cm〜40cmの多彩なロケット弾が,陸軍と海軍によって開発された。尾翼またはスピンあるいはその両方が飛翔安定のために適用されたことは言うまでもない。
左:20cm噴進弾 右:噴進弾の木製ランチャー |
|
噴進弾の強みは,従来の大砲のように大がかりな発射システムを運ばなくて済み,極論すれば簡単な筒か2本のレールさえあれば発射可能な点にある。これらの技術的詳細や硫黄島・沖縄をはじめとする前線で使用されたくだりは,巻末文献を参照されたい。 1943年の暮れ,東京・目黒の海軍技術研究所が300人を投入して一種の地対空ミサイルとも言える「奮龍」の研究開発にとりかかり,1945年7月には奮龍2型の飛行テストに漕ぎ着けた(浅間山)が,実戦に投入するには至らなかった。なお海軍はこの後,液体ロケットを使った奮龍3〜4型の開発へと進んだ。 そして第2次世界大戦下の日本の固体ロケット・グループは,ついに固体ロケット推進の有人グライダー「櫻花」を完成する。一式陸攻の胴体に小判鮫のように吊られた櫻花はあまりに有名だが,紙面もあまりないので,詳細は巻末文献に譲る。
一式陸攻からの桜花11の落下テスト
2. 液体燃料ロケットの系譜1935年に陸軍で開始された液体燃料ロケットの研究は,液体酸素とアルコールを推進剤としており,数年にわたる地上燃焼試験を経て1939年には飛翔寸前になっていたが,担当者の転勤などもあって一時立ち消えになった。再び研究が開始されたのは,戦況が急を告げる1944年7月だった。【陸軍のイ号ミサイル】 海上での作戦展開が不得手とされる陸軍は電波誘導方式のミサイルを構想した。それは「イ号計画」と呼ばれ,大型の「イ号1A」と小型の「イ号1B」という二つの計画からなった。イ号1Aは無人のロケットで,頭部に800kg(1Bは300kg)の爆弾を積み,母機Ki - 67(1BはKi - 48またはKi - 102B)の胴体の下に吊り下げられる設計で,両機とも1944年夏に設計が開始され,同年10月にはプロトモデルが完成するというすばやさだった。
左:Ki-67爆撃機に装着されたイ号1Aミサイル 右:Ki-48爆撃機とイ号Bミサイル またイ号1Bは1Aより近距離の敵をターゲットとするもので,使い捨てだったにもかかわらず,イ号1Bは極限まで設計の単純化を図り,製作・保守いずれも非常に容易となる素晴らしいものだった。1945年2月に伊豆で行われた飛行テストでは,予定コースから大きく左にそれて熱海市に突入,旅館に飛び込んで仲居さん2人,宿泊客 2人を死亡させるという事故が起きている。そのためテストが琵琶湖周辺に移され150機の実機が製作されたが,1945年6〜7月の爆撃で工場が壊滅的打撃を受け,生産中止の止むなきに至った。
|
|
1944年の3〜4月,日本とドイツの軍事援助協定に基づき,ドイツのメッサーシュミット(Me - 163B)の機体とロケット・エンジンの技術データが2組,日本の海軍武官に渡され,それらは潜水艦「皐月」と「松」にそれぞれ乗せられ日本をめざした。前者は大西洋で撃沈されたが,後者は幾多の困難を乗り越えて7月14日シンガポールに到着,空路日本に持ち込まれた。 不十分な資料ではあったが,海軍と陸軍が日夜兼行の努力を注ぎ込んだ結果,日本版Me - 163Bである「秋水」のモックアップ・テストが1944年9月に行われるに至った。エンジンは「特ロ2号」と呼ばれた。因みに推進剤は,甲液(過酸化水素と安定剤)と乙液(液化ヒドラジン,メタノール,水,触媒)。 テスト機とパイロットの訓練機を兼ねた,エンジンとタンク抜きのグライダー・モデル(木製の軽い「秋草」1機と重いグライダー2機)も製作され,1944年暮れから 1945年初めにかけてのテスト飛行でパイロット訓練機としての準備は整った。 B - 29の空襲をかいくぐりながらの大変な作業で,特ロ2号エンジンが地上燃焼試験を終え,海軍と陸軍用に2機の秋水がフル装備となったのは,1945年7月のことだった。歴史的な海軍による秋水の初飛行は7月7日,犬塚豊彦中尉によって行われ順調だったが,エンジンが高度350mで異常音とともに停止し,グライディングで滑走路に進入する際,民家の屋根に主翼が触れて墜落,犬塚中尉は殉職した。
左:秋水のテスト機秋草の前に佇む犬塚中尉 右:着陸寸前に墜落・破壊した秋水の1号機
3.エピローグ秋水のために開発された液体ロケット技術は,海軍のエンジニアによって地対空ミサイル「奮龍4型」への転用が試みられていたが,これも仇花となった。第2次大戦が終わると,戦時中のロケット開発の資料はことごとく関係者の手によって焼き払われたが,ペンシル・ロケット以後日本の技術陣が成し遂げた技術の高みは,先達の技術者魂を心ならずも受け継いだ価値あるものと,国内外に誇り得るものである。
文献1) “Handbook on Guided Missiles of Germany and Japan", Military Intelligenc e Division, War Department (1946)2) 大沢他『日本ロケット物語』(三田出版,1996) 3) Y. Matogawa,“Japanese Sol id Rockets in the World War II", IAA-96-IAA.2.2.07, 1996 4) Y. Matogawa,“Japanese Liquid Rockets in the World War II", IAA-97-IAA.2. 3.02, 1997 5) Y. Matogawa,“Ohka Japanese Rocket-Propelled Attack Glider in the Wo rld War II", IAA-98-IAA.2.3.03, 1998 6) Y. Matogawa,“Shusui Japanese Rocket Fighter in the World War II", I AA-99-IAA.2.3.01, 1999 (まとがわ・やすのり) |
|
---|