1999年の9月の初めから2000年の3月の初めまで6ヵ月間,NASAの招きによりジェット推進研究所(JPL)にて仕事をする機会を得た。私の滞在中にJPLが担当した火星探査機が2つ立て続けに失敗するというショッキングな事件があった。私はこれらのプロジェクトに直接関わっていたわけではないので,この事件について論評することはできないが,JPL内部では新たな火星探査の方針について盛んに議論されているという話である。あのダイナミックなNASAのことであるから,「Faster, Better, Cheaper」に変わる新たなパラダイムも近い将来登場することであろう。
さて,日本に戻り宇宙研で再び仕事をするようになってからに3ヵ月にほどが経つが,最近になってアメリカと日本では仕事の進め方にいろいろな違いがあることに改めて気づかされ,「うーむ」と唸ってしまうことがしばしばある。アメリカ人も日本人も,おかしいときには笑い,悲しいときには泣くという点では,そんなに違いはない。しかし,物の考え方の基本的なところで,決定的な違いがあるように思うのである。
その違いの基本的な部分は,たぶん次のように言い表せるのではないかと思う。それは,個人と集団を対比させたときに,アメリカでは集団よりも個人が重んじられ,日本では個人よりも集団が重んじられるということである。
私は,JPLにおいては,あるグループに所属し,そのグループのマネージメントのもとで仕事をした。しかし,グループといっても全員で集団として行動するのではなく,グループのメンバーそれぞれに個別のテーマがあり,各々のメンバーは自分のテーマに関しては自分の責任のもとで自分の流儀で仕事をするのである。私の仕事の進め方についても,マネージャーや同僚から指導めいたことを受けるということは全くなく,完全に自分の考えに従って仕事をすることができた。ただし,仕事の成果については,グループの人々からも評価を受ける。例えば,私の書いた文書について同僚から「この部分はわかりにくいから,書き直した方がよい」というような助言を受けることはあった。しかし,仕事の実行の単位はあくまでも個人であった。
それから,アメリカでは,人の所属や身分にこだわることはあまりない。実際に,私がJPLで担当したテーマは,私の日本における所属や身分を考慮して決まったわけではない。また,JPL滞在中に,私の日本における所属や身分がJPLの人たちの間で話題になったこともほとんどない。あちらでは,新しい仕事を誰かに割り当てるときも,所属や身分や勤続年数等とは無関係に,その仕事に最も適した人を選んで担当させている。これも,個人を評価するときは,集団の中の位置で評価するのではなく,個人そのものを評価するという考えに基づいているからであろう。
個人が基本であるということは,委員会などの組織の運営においても当てはまる。日本の各種委員会では,委員会全体で集団としてことをなすことに意義があるのであり,委員長といえども自分の個性を発揮する余地はあまりない。しかし,アメリカでは,委員会において委員長の果たす役割は大きく,委員長が変わると委員会の雰囲気ががらっと変わってしまうということもある。委員会の前に会議の内容や構成を考える,あるいは委員会の後に議事録を書くという仕事は,委員長が自分で行うことが多い。これは,委員会の舵取りは,委員長個人に与えられたテーマであるという考え方に基づいているからだろう。
川口助教授は,ISASニュースの4月号の記事で,アメリカでは20年以上も前にViking等の探査機において先端的な技術を使用していたことを紹介している。宇宙開発においては,アメリカでは20年以上も前に完成しているのに日本では未だに発展途上であるという技術分野が数多く存在するのは事実である。これは,単に予算が多いの少ないのという問題だけでなく,仕事の仕方の根本的なところの違いとも関係があるように思う。「仕事の単位は個人である」という考え方は,独創性が要求される分野においては,なかなか適しているような気がする。
もちろん,なんでもかんでもアメリカのまねをすればよいというものでもない。また,宇宙研のプロジェクトの進め方も,長年の経験に基づいているわけであり,それなりに良い点がいろいろあると思う。しかし,どのような仕事の仕方が「宇宙科学」という分野に合っているのか,あるいは「研究所」という組織に合っているのかということを我々はもう少しオープンに議論してもよいのではないかと思う今日この頃である。
(やまだ・たかひろ)