No.230
2000.5

ISASニュース 2000.5 No.230

- Home page
- No.230 目次
- 研究紹介
- ISAS事情
- 宇宙を探る
- 東奔西走
- 惑星探査のテクノロジー
- いも焼酎

- BackNumber

奥の細道

中 野 不 二 男  

 「荒海や 佐渡によこたふ 天の川」

 私の郷里・新潟市から,海岸線沿いに南西へ60キロの出雲崎で,芭蕉が詠んだ句とされている。小学校のころから国語の時間にはいつもこの句を聞かされてきたので,記憶にこびりついてはなれない。少年時代の思い出と「荒海や」がワンセットになっているのだ。しかしちょっとまえまで,思い出すたびにどうしても首をひねってしまうことがあった。「佐渡によこたふ 天の川」の部分が,どうしても納得できなかったのだ。芭蕉が,「奥の細道」の旅に出たのは元禄二年,1689年の春である。このとき門人の曽良(そら)が同行している。曽良は驚くほどのメモ魔で,道中に綴った記録「旅日記」は有名だ。何月何日にどこに宿泊したかはもちろんのこと,日本の技術史にも登場している紙製の携帯日時計を持ち歩き,何時にどこを通過したかということまで記していた。その曽良の記録によると,芭蕉が出雲崎で「荒海や」を詠んだのは,7月4日となっている。もちろん旧暦であり,現代の暦ならばおおよそ8月の上旬だろう。しかし私には,夏の天の川が「佐渡によこたふ」という印象がない。

 新潟県の海岸で,夜でも佐渡の島影が見えるというのは,北緯37.5度の柏崎から38.5度の村上あたりまでである。その中間の北緯38度に位置する新潟市の砂浜で,私は何度となく夜の日本海をながめてきたが,天の川はいつも滝のように海に流れ込んでいた,という思い出しかなく,どうも釈然としなかったのだ。そこでいつだったか,星座早見盤でたしかめたことがある。早見盤の目盛りを8月上旬の午後8時にして,北天の星座を調べたのだ。日没の遅い夏場のことだから,天の川がはっきりと見えるのは,まあ8時あたりである。もちろん,出雲崎の経緯度も補正もした。しかしやっぱり天の川は,夜空から日本海に流れ込むようなかたちにしかならなかった。

 午後4時とか5時あたりなら,たしかに早見盤では天の川は横たわるのだが,夏のこんな時間に星空などが出るはずもない。また6月上旬,つまり旧暦の5月上旬にまでさかのぼれば横になるが,これでは旅日記の記録とズレが生じる。曽良は記録にこだわっていたのだから,旧暦の7月4日という日付にまちがいはないはずだ。ならばどうして,芭蕉の描写と自然現象が食い違っているのだろうか。

 こうした疑問をかかえながらも,歳月はすぎていった。そしてあるとき,私はふと思い当たった。7月中旬から8月上旬の日本海は,いつものんびりと凪いでおり,佐渡の山々の稜線さえもくっきり見える。荒れるのは8月の中旬以降で,私は子供のころから「盆をすぎたら海にゆくな」といわれたものだ。

 したがって芭蕉の描写に反し,実は8月上旬の出雲崎から見た夜の日本海は荒れておらず,それゆえに佐渡の島影が鮮明だったはずである。そして本当は天の川も,滝のように流れていたのではないか。芭蕉はこの光景に,べつの土地で見た荒れる日本海と天の川の印象を,かさねて詠んでいたのだろう。そしてその土地とは,山形県内のどこかだったにちがいない。

 「奥の細道」の旅は,陸奥の平泉を“最奥”として,そのあと出羽地方の海岸へ抜けて南下している。そして旧暦の5月に,五月雨の降る最上川の河口ちかくを通る。現代でいう6月で,この時期ならば日本海は荒れているし,天の川も夜空に横たわって見えるはずだ。

 芭蕉は,旅を終えたのちに,推敲に推敲をかさねて「奥の細道」を書き直している。したがって旅の先ざきで詠んだのではなく,各地での印象と,曽良にとらせていたメモをもとに“編集”をしていたらしい。「荒海や 佐渡によこたふ 天の川」は,その編集作業の結果だったのではないだろうか。

(科学ジャーナリスト なかの・ふじお) 



#
目次
#
Home page

ISASニュース No.230 (無断転載不可)