No.227
2000.2

ISASニュース 2000.2 No.227

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+ いも焼酎
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「私と内之浦」

小 川 原 嘉 明  



 内之浦の実験場に来るようになってすでに30年以上が過ぎた。この間,何回くらいここまで往復したのか数えたことは無いが,多分100回前後になっているような気がする。

 初めてここへきた時の記憶は極めて鮮烈である。東京から夜行寝台車で20時間以上かけて西鹿児島駅に到着,鹿児島市内でひと息いれて食事,買物を済ませ,さてこれからいよいよさらなる遠方の地内之浦へ向かうのだと覚悟を新たにして垂水行きの桟橋へと急いだものである。今の桜島桟橋の近くにあった船着場から漁船のような粗末な船で湾を斜めに横切り,垂水に着く。今より遥かに長い時間がかかったはずであるが,その前後の旅の時間にくらべるとこの船に乗っている時間などは全く気にならなかった。

 さらに垂水から,実験場の車(定員10名程度の小さな車)に乗り,大隈半島を横切ったあと海岸沿いの崖っ縁の曲がりくねった坂道を数時間縫うように走り,ようやく内之浦町に入る。この坂道が極め付きのラフロードで,舗装など全くない雨上がりの山道に人の頭ほどの石がゴロゴロ転がっていて後ろの方におとなしく座っていた私は,跳ね上げられて車の天井に頭をぶつけてしまいながら「いったいこの道をどうやってあのロケットを運んだんだろう」とただただ感心しながら丸1日半近い行程を終えた。真夏の灼熱の日射しが降り注ぐ町の表通りには,砂埃の中を子供達が元気に裸足で駆け回っていた。

 以来幾星霜,夜行寝台列車はやがて途中まで新幹線,そして今では内之浦行きは飛行機の利用が普通になり,雨が降る度に崖崩れで通行止めになった崖っ縁の難路も,拡幅,ショートカット,舗装,を重ね,今では羽田空港を出てからほとんど5時間で内之浦の町に立てるようになった。このような目覚ましい変遷は,実験場の施設整備拡張とともに,高度成長に伴う社会全体の基盤整備が整ってきたことによるものであろう。

 僅か24kgの試験衛星「おおすみ」から始まった科学衛星計画も1.7トンの第19号衛星ASTRO-Eにまで成長した。しかし,いま日本の社会全体が根本的な構造の見直しをせまられ,厳しい改革を進めている。行政改革の一環として宇宙開発全体の体制の議論も活発に行われている。しかし,もっと身近な現実問題として,今宇宙研が既定計画としてすすめているM-Vによる各ミッションも,その実現のためには今の宇宙研の衣はいささか小さすぎてその成長した体に合わなくなっていることは明らかである。今回,ASTRO-Eの開発を進めてみてその感をますます深くした。

 我々観測担当の苦労は当然であるにしても,特に衛星の構造,熱,姿勢制御,打上げなどを担当する宇宙工学関係者の負担もほとんど限界にきているように思われる。各種施設の整備も勿論であるが,最も重要なことは,研究所の体制の見直しであろう。これから予定されている各ミッションは科学的な意義は十分に高いが,技術的な障壁の高さも大変なものである。このような先端的な技術に支えられた科学ミッションの遂行こそまさに宇宙研の任務である。今回の行政改革が今後の正しい発展の良い足がかりとなることを切望する。

 ところで今,久しぶりでASTRO-E衛星打ち上げのため内之浦の実験場に長期滞在し,昔なじみの宿で,文字通り「いも焼酎」を傾けながらこれを書いている。

 「銀河荘」は新しく「コスモピア」に生まれ変わり,温泉もでき,町の様相はすっかり変わってしまった。

 しかし,実験場の皆さんをはじめ町の人たちの暖かい心は少しも変わっていない。間もなく宇宙研を去るが,最後まで精一杯働く機会を与えられたことに深く感謝しながら飲むお湯割コップの向こうに,これまで苦楽を共にした多くの人々,お世話になった多くの人々の顔が浮かんでくる。

(おがわら・よしあき) 



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