No.217
1999.4

ISASニュース 1999.4 No.217 


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糸川先生の思い出

櫻井洋子  



 先生に最初お目にかかったのは,就職のために世田谷の家にお伺いした1960年3月のことであった。先生はロケットのこと,東大生研の組織のこと等お話下さり,「君は東大生研の中で身分が何であるかということよりも,僕の秘書であることの方が重要であり,意味のあることです。」とおっしゃって,働くことを勧めてくださった。「しかし,僕の研究室を見てから返事を下さい。」ということで,次の日西千葉にあった研究室にお伺いした。

 研究室は生研の敷地の西のはずれにあり,葦簾張りの平屋の木造の建物であり,中に入ると所せましと実験器具や器材があり,作業台の上で何やら実験の準備が行われていた。そこにおられる2〜3人の方は汚れた白衣に帽子をかぶり,笑顔で迎えてくれた。そして,区切られた一角では,手廻し式のタイガー計算機を机の上にのせて計算をしておられた。先生は皆さんに紹介して下さり,実験は新しい推進薬の開発実験のためであり,ロケットのトラジェクトリーの計算をしておられたということだった。この時おられた秋葉先生をはじめ,吉山,広沢,丹野,充告,林の各氏は私の人生の中でかけがえのない先輩であり,指導者であり,友人となった。

 そして,先生の部屋で長文の英文の手書原稿を渡され,数枚タイプを打つように言われ仕事にかかった(この頃の英文タイプライターは手動で,コピー機もない時代であった)。30分ぐらいして出来上がりをお渡しすると,「カーボン紙を入れ違えせず,ノーエラーで打ちあげたのは,あなたがはじめてです。」と言って下さったことがとても印象的であった。帰りに送っていただいた車の中で勤めることを決めたと記憶している。先生は離れた西はずれに研究室を置いていたのは,集中して仕事をしたいからとおっしゃった。

 勤務して2カ月経った頃,ロケットの国際シンポジウムが学士会館で開催され,先生はプログラム委員長であったが,その間新聞記者に,「英語をちゃんと話せない日本人が国際会議で発表するなんておかしいし,日本で国際会議開催は時期尚早ではないか」と言われていたが,先生は,毅然と国際会議の必要性,意義を説明しておられた。

 次の年の仕事始め,人並みに晴れ着を着て出勤したところ,先生は,「今日は仕事にならないから帰る」とおっしゃって帰られてしまった。以後,年末年始は予算獲得のお手伝いで,元旦のみ休みで頑張った。これは,予算要求の道が開けるまで続き,先生の研究費予算の入手は大変御苦労が多かった。先生は「仕事は人の10倍しなければ人の上にはたてない」と,朝は7時過ぎにきて大学の講義の準備をし,講義,研究,会議,打合せと忙しい毎日を送っておられたが,あいた時間があるとチェロを楽しみ,奥様の御用意のおやつでお茶の時間を持たれ,海外に出張されると,絵葉書を送って下さり,帰国後は海外で撮った風景写真を拡大して飾っておられたりしていた。

 先生がお辞めになって年賀葉書の御挨拶だけになったこの10年だったが,私が定年退官する2年前,先生から突然データセンターにお電話をいただき「いつ定年になるのか?。研究所を辞めたら僕のオフィスにきて欲しい」と久し振りのお声に,うれしいやら,胸にこみあげてくるものを感じた。それから鹿児島のシンポジウムの時にお目にかかったのが最後であった。体の調子が良くないとおっしゃっておられたが,まだまだ頑張らなければとのことであった。

 先生の思い出は,次から次ぎへととめどなく湧き出して来る。先生の先を見通す力,実行力,組織作りのうまさ等が,現在宇宙研の宇宙開発のかたちとなって現れていると思われる。批判されつづけ,批判するより,批判される立場の方がよいと言われたが,先生の話されたことは正しく,素晴らしかったと,そして先生がおられたから日本には現在の宇宙開発があると言えるのではないか。

 心よりご冥福をお祈り申しあげます。


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