佐藤忠直さんを偲ぶ
中谷一郎
今だに信じられないのです。佐藤さん,あなたが,去る1月12日,あんなに急に逝ってしまうなんて。「毎年,人間ドックに行くたびに指摘されるので,そろそろ観念して,肝臓の手術を受けることにしましたよ。1ヵ月ほど入院してきます。」と,佐藤さんが言っていたのが,去年の暮のことでした。日頃,頑健な佐藤さんが,入院というのは意外でしたが,本当に軽い調子の言葉だったので私も全く心配していませんでした。佐藤さんとの32年におよぶ際き合いで,あなたが,病気で勤めを休んだという記憶がほとんどありません。ヒョロヒョロして,誰が見ても長持ちしそうにない私が,頑健そのものに見えていたあなたの追悼文をこうして書くはめになるなんて,どうしても信じられないのです。今でも,廊下であなたにバッタリ会って,「イヤア,あれは悪い夢でしたよ。」という言葉が聞かれるような気がしてなりません。
佐藤さん,あなたは,1964年に発足したばかりの東京大学宇宙航空研究所に就職し,東口先生の研究室に配属されて以来,一貫してロケットの姿勢制御系に全霊を捧げてきましたね。「木筋コンクリート」と悪口を言われていた16号館の,夜になるとネズミが走り回る2階の研究室で,ロケット姿勢の飛翔データを,グラフ用紙に黙々とプロットしていた佐藤さんの姿を思い出します。学生の私には,初めて接する現場の雰囲気として印象的でした。1967年のことで,16号館の最新鋭大型計算機は,ハードメモリが1Kワード,記録媒体は紙テープ,プロッターは備わっておらず,ロケットの飛翔データは人海戦術で,手作業によるグラフ化に頼る時代でした。
私が大学院を卒業後,研究室を離れ,9年後に,改組された宇宙科学研究所に,職員として戻って来たのが1981年。佐藤さんは,相変わらずロケットの姿勢制御系に打ち込んでいましたね。Mシリーズや S-520シリーズの姿勢制御系は,あなたが全号機手がけ,駒場や移転後の相模原での噛合せ試験,内之浦の射場での CN系総合試験,組立てオペ,フライトオペ等,全てのフェーズで,佐藤さんのヘルメット姿は,現場を離れることはありませんでしたね。冷静沈着で,決してあわてることはなく,ロケット仲間の信頼を得ていた佐藤さん,また,ここ数年はエレクトロニクスショップで所内の多くの人達の支えとなってきた佐藤さんの姿は,私達の心に生き続けていくことでしょう。御冥福を心よりお祈りします。
(なかたに・いちろう)