No.191
1997.2

<研究紹介>   ISASニュース 1997.2 No.191

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飛行のシミュレーションと人間

   九州大学工学部  後藤昇弘


◆はじめに

 我が国固有の有人宇宙飛行計画は未だ公式日程に上っていないが,宇宙飛行士は続々と誕生している。宇宙飛行士は打ち上げや大気圏再突入などの大きな衝撃に耐え,微小重力環境で仕事をしなければならないから,健康状態の管理はもとより様々な環境に慣れるよう十分な地上訓練がなされるのは周知の通りである。勿論地上は宇宙と異なるので,訓練はいわゆるシミュレーション(模擬)が中心となる。宇宙飛行あるいは宇宙滞在による体験が数多く報告されるようになったが,それぞれの体験が地上で再現可能かというと必ずしもそうではない。そのような一つとして宇宙酔いがある。宇宙酔いの原因の一つは,人間が1G環境で獲得した運動に関する情報処理法が微小重力環境で齟齬を来すことにあると言われるが,それだけではなく多くの要因がからみ合っていて,原因究明と対処法は未だ進展段階にある。先般エンデバー号で飛行した若田宇宙飛行士の話を聞く機会があったが,彼は「宇宙酔いは意識もしなかった」と言っていた。個人差もあるし宇宙滞在期間の長短も影響しているようである。それでは,人間は運動をどのように知覚し,姿勢や視覚の安定化,制御,誘導に利用しているのだろうか。特に知覚は情報獲得過程として種々の問題の根本的な点であるので,これについて概略をまとめ,地上で飛行のシミュレーションを行う際に生じる問題点について触れてみたい。

◆空間識

 三次元空間における人間の位置と動きの確認,方向づけを空間識( Spatial Orientation )と呼ぶが,人間の空間識には内耳が重要な働きをしている。19世紀中葉までは,人間の平衡感覚は頭や内臓での血液移動や皮膚にある圧力レセプターより生じると考えられていたようだが,内耳の重要性を主張したのはベンチュリ管で有名な Venturi である。内耳には三半規管(Semicircular Canals )と耳石( Otoliths )で構成される前庭器官( Vestibular System )がある。それぞれは図1に示すように模式化される。

 まず,三半規管は互いに直交する三つの半規管から成る。それぞれの半規管の内部はリンパ液で満たされ,半規管が回転しリンパ液が流動すると,半規管の取付部でリンパ液をせき止めている平衡頂( Cupula )の毛状細胞が変形し,平衡頂両端間の圧力差が検出される。従って,三半規管は三軸まわりの角加速度検出器である。しかし,リンパ液の粘性が高いので角加速度入力に対する平衡頂の動きの動特性は過減衰の二次系でモデル化することができ,しかも二個の時定数( 16 secと0.005 sec程度 )の差が大きいので,実際には積分ジャイロ的特性が示される。即ち,三半規管はむしろ角速度検出器として働いている。実際,平衡頂の動きと眼球の動き( Nystagmus )が密接な関係があることを利用して,入力角速度と人間が感覚する角速度の間の周波数特性が測定されていて,それによると,0.1 rad/sec〜10 rad/secの広い範囲で振幅比はほぼ0 dBであるが,位相は同じ範囲で+30°位から徐々に遅れていき,1 rad/secあたりで丁度同位相,10 rad/secでは-180°程の遅れを示している。このことから,三半規管は1 rad/sec付近の回転運動に対しては角速度検出器として美事に作動するが,それより低周波や高周波の入力に対しては主観的回転感覚は特に位相の面で信用できないことになる。雲の中など低視程環境での低周波旋回飛行を水平直線飛行と感じたり,スピンを続けて急停止すると逆スピンをしているように感じるのはこのような三半規管の特性から生じる錯覚である。フィギュアスケータの回転感覚には多分に順応( Adaptation )や馴化( Habituation )の作用があると考えられるが,これらの作用は三半規管自体だけでは説明できず,中枢神経系( Central Nervous System )の役割が大きいようだ。

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 次に耳石であるが,これは三半規管に比べるとまだ良く理解されていない。というのは,耳石は卵形のう( Utriculus )と球形のう( Sacculus )に一式ずつ収められているが,卵形のうの方は明らかに直線加速度検出器であることが認められるものの,球形のうの方は構造は類似であるのにその働きは不明だからである。ここでは直線加速度検出器としての卵形のうの方を取扱う。図1に示すように,卵形のうは耳石とそれを支える有毛支持細胞( Macula )及び神経組織から成る系を包んでいる。耳石自身は炭酸石灰を成分とする多数の平衡砂( Otoconia )であり,直線加速度入力により感覚細胞の毛の曲げ変形が神経系へ伝えられる。しかし,曲げ変形だけでは二軸方向の加速度検出が主となるので,圧縮力も伝えられるのかも知れない。一軸加速度入力による実験解析によれば,耳石系は三半規管と同様に過減衰二次系のモデル化が可能で,従って実際には速度検出器として作動し,その特性が良好な周波数領域は0.2<ω<1.5 rad/secである。耳石系は合成加速度を検知するので,例えば電車がカーブした軌道を走ると乗客は窓外の家や木が傾いていると感じる。勿論これは視覚系が運動感覚系と連動しているためである。また,宇宙飛行士の訓練のために軌道飛行による自由落下の実験が行われるが,この無重力状態では定常の重力加速度入力が無いので飛行士には上下感覚が無い筈である。にもかかわらず上下感覚の幻覚があることが報告されているが,これは瞬間的頭部の運動による加速度情報が誤認されているためであろうと思われる。

 上述の前庭器官や視覚による情報の他に,人間は触覚や知覚神経端末からの情報を空間識に役立てている。触覚は圧力センサーと見なされるが,日常経験するように,圧力刺戟の微分値の検知がその主な役割である。一方,各知覚神経端末からの情報は定常の空間識を得るために用いられる。例えば,手足の位置,各筋肉の長さや張力などは上下位置関係や外力の認識に役立てられる。

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 結局,これらの情報の流れと人間が乗っている飛行機や宇宙船の動きとの関係は図2に示すようにモデル化できると考えられている。このように,人間は種々の感覚情報を中枢神経系のソフトウエアで解析して空間識を得ている訳である。このソフトウエアの内容は良く分かっていないが,各種感覚情報の不一致があると色々な問題を起こす。いわゆる乗物酔いはこのことに基づくことが多いようだ。宇宙環境を含む非日常的な運動環境にさらされると,各種感覚器官の動特性の違いからそれぞれの情報の不一致を生じ,ソフトウエアは処理に困り,空間位置感覚の失調 ( Vertigo )を招いたり生理的不快感を催すことになる。他にも,航空機操縦のシミュレーションに運動を伴わない固定座席シミュレータを用いると,模擬視界による運動情報に体感が伴わないため「シミュレータ酔い」を起こすことが知られている。また,飛行実験中の計測員が酔い易いと言われるが,これは機体が回転運動中に頭の移動を行うことによるコリオリ力の発生を前庭器官が捕え,錯覚と現実の相剋に苦しむためと思われる。先のベトナム戦争でB-52爆撃機のナビゲータが酔いに苦しんだという話はもう一つの良い例である。

◆飛行のシミュレーション

 このようなことから、シミュレータを用いた(宇宙)飛行の模擬には十分な注意が払われねばならない。運動のスケールや周波数領域を考慮してそれぞれに応じた工夫がなされている。宇宙機の打ち上げ時のGの模擬のためには遠心力発生装置がよく用いられるが,耳石は合成加速度ベクトルを検知するので,局所鉛直の錯覚に注意が必要である。NASA Ames 研究所では,そのためのトラベルの大きいエレベータ式シミュレータを以前製作し使用した。同研究所ではまた,ヘリコプタなど垂直離着陸機研究用に矢張り上下のトラベルの長い特殊なシミュレータを開発し使用している。我が国ではSSTプロジェクトが進行中であるが,スレンダーボディの弾性振動が与えるパイロットの操縦への影響や乗客の乗心地への影響の調査のために,このような振動を模擬できるシミュレータが不可欠である。

◆おわりに

 我々の研究の目標は,これまで述べてきたような人間パイロットの特性のモデル化を行い,計算機上で有人飛行を行って制御系を含む機体の設計評価に役立てることである。そのためには中枢神経系の働きなど解明されねばならない点が数多くあるが,部分的には有用となった結果も多い。特に1自由度運動の飛行に対しては相当精密なパイロットモデルが提案されており,各種飛行問題の解決に役立っている。飛行の評価法は,従来はパイロットレイティング( Pilot Rating )という10点法の主観的評価に頼っていたが,ミッションの成績とパイロットの作業負担( Workload )を成績指標として表わせば最適問題として定式化できることが分かり,客観的評価のための努力が続けられている。筆者等はこのような指標にH∞ -ノルムを用いた手法を提案している。しかし,現状では1自由度運動にしか適用できないのが難点で,情報処理の相剋が問題となる多自由度運動への発展はこれからの課題である。冒頭にも述べたように,人間には経歴を含めた個人差があるので,これをどのように表現するかも未解決である。人間がいかに複雑な interdisciplinary な存在であるかを漸く実感として認識し始めた段階であり,ことに中枢神経系の研究などは自分の頭の中身をさらけ出すようでとても公にはできない。  杜牧の詩の一句に「包羞忍恥是男児」とあるが,そのような心意気で大方のご意見を俟つといった現状である。

(ごとう・のりひろ)


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