No.298
2006.1

ISASニュース 2006.1 No.298 

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「はやぶさ」に思う 

サイエンスライター・宇宙開発委員 野 本 陽 代 


 日本初の小惑星探査機「はやぶさ」のハラハラドキドキのミッションの経過を耳にするにつれ,日本のロケット開発の歴史を取材した14年前のことを思い出す。一癖どころか何癖もあった糸川英夫先生の名前の付いた小惑星,東京から鹿児島まで22時間半もかかった特急と同じ名の探査機。名前だけでもスンナリいかない予感がしたが,現実はもっとスリリングに進行しているようだ。

 日本のロケット開発は,糸川先生の「太平洋を20分で横断する飛翔体を作る」というハッタリから始まった。あちこちからかき集めた初年度の予算は,産学全部合わせてもわずか560万円。これでは50年前でもペンシルロケットを飛ばすのがせいぜいだっただろう。でも,新しいことに取り組もうという東京大学生産技術研究所の工学者や富士精密工業(当時)の技術者たちの意気は高かった。

 ロケット開発が現実的なものとなるのは,1957〜58年の国際地球観測年にロケット観測で参加したいと願う科学者と手を組んでからのことである。科学観測のためのロケットを作るという明確な目標がなければ,生研での開発はすぐに挫折していたかもしれない。

 秋田県道川海岸で始められた打上げ実験は,試行錯誤の結果,1958年に7回,上層大気観測に成功することで当面の目標を達成した(ロケット観測に成功したのは5ヶ国のみ)。その後,舞台を鹿児島県内之浦に移して人工衛星の打上げに取り組むことになるが,これも簡単にはいかなかった。失敗また失敗,5度目の試みで日本初の人工衛星「おおすみ」が上がるのは1970年2月のこと。ソ連,アメリカ,フランスに次いで4番目であったが,まったくの自力で一大学が衛星を上げた例は,世界でも最初で最後だと思う。また,衛星打上げロケットの大きさ,最小の記録は今でも破られていない。

 限られた開発時間,潤沢とは程遠い予算,手探りの技術開発,周りの無理解,先行する華々しいイメージと過剰な期待。これらのことが,開発が始まった当初から現在に至るまで,ロケットや衛星に付いて回っている。期待が大きいことは悪いことではなく,お金と時間が十分にあればいいものができると決まったものでもない。しかし,表面をとらえての批判のための批判だけは,何とかならないものかと思う。

 宇宙科学研究所での宇宙への取り組みは,50年前から工学者と科学者のせめぎ合いによって進められてきた。より良い観測装置,科学衛星を飛ばしたい科学者と,その要望を何とかかなえようとする工学者。数々のプレッシャーの中,足りない分は知恵を出し合い,独創的な工夫を重ねることで,ロケットも衛星も開発が進められてきたように思う。宇宙航空研究開発機構となった現在,旧宇宙開発事業団のもっていた組織力・技術力でさらにパワーアップして,世界に冠たる宇宙科学大国になってもらいたい。

 小惑星の物質採取に成功したのかしなかったのか,無事に地球に帰還できるのかできないのか。まだハラハラドキドキが続きそうだが,将来の惑星探査の礎となるであろう「はやぶさ」の今後を見守りたい。

糸川英夫先生とペンシルロケット

(のもと・はるよ) 


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