帰路「しらせ」に乗船してから40日がたつ。約1カ月半前まで,我々は昭和基地にいた。
昭和基地にて
第45次南極地域観測隊の越冬隊40名,夏隊22名を乗せた砕氷船「しらせ」は,オーストラリア出航後2週間かけて,2003年12月17日に南極に到着した。同日,昭和基地への空輸第1便が飛び立ち,観測隊による施設建設,専門分野の観測実験を含む夏オペレーションが開始された。
朝6時に起床,朝食を済ませ,身支度をして7時45分から宿舎前にてラジオ体操&点呼を行い,8時から作業が開始される。正午の1時間の昼食タイム以外は19時まで作業が行われる。1日の気温差は大きく氷点下にもなり,強風の中での作業も続く。極地の環境と,あまりにも遠く隔離された場所ゆえ,作業方法は原始的な方法におのずと限定されてしまい,手間と時間を費やす結果となってしまう。限られた日数,人数で構築された夏期作業では,自分の担当する観測実験が終われば,すべての者が即座に他作業のサポートに入る。教授も外科医も役人も泥とほこりにまみれ,コンクリートを練り,土を掘り起こしていくのは当然“人力”である。
作業中は小休止と称して朝の10時と午後3時に“中間食”なるものが配られる。中身は缶コーヒーなどの飲料とあんパン1個だったり,タイヤキ,大福だったりといったバリエーションまである。日本ではとうてい手を伸ばさない菓子類なのだが,作業中は配達のバギーが来るのをいまかいまかと待つのである。菓子を手にした後は風をしのげる小屋なり雪上車でむさぼり食うのだ。こういったサイクルが,10日に1回の休日を挟み繰り返される。
最初の1週間は慣れない環境と作業で筋肉痛,睡眠不足に悩まされ,昼食後でも10分でも時間があれば,みんな床に転がって体を休めていた。
時がたつにつれ,それぞれの工程も確立されて作業効率も上がり,作業に慣れた隊員たちの結束力も高まる。その後は作業期日との戦いになり,期限に間に合わせようと夕食後も作業が行われるようになる。思いがけないトラブルも当然頻出し,日本で考えられる限りの準備はすべてこなしてくるのだが,それでも“動かない”“物がない”状況が生まれる。予測し難い事態が起こり,日本では度外視される問題でも,ここでは大問題に発展する。今あるものでいかに対処するかという課題が,常に付きまとう世界である。
昭和基地での生活環境はというと,食事はプロの料理人たちが作ってくれるものをいただける。手間暇をかけ日本と何ら変わることのない食事が食べられる。また夜の楽しみの一つに,週3回開かれるバーがある。ここで皆,仕事の疲れを癒やし,日本では接点のない異分野の職人たちと話を弾ませ明日への活力とするのだ。休みには散策やらソフトボール大会などのレクリエーションも催される。
2004年2月15日(日),夏隊が昭和基地を離れる最終日である。40名の越冬隊を残し,われら夏隊は一足先に昭和基地を後にする。南極時間AM8:00,ヘリポートに「しらせ」からのヘリが到着するとすぐさま荷物を積み込み,隊員も搭乗口に向かう。夏隊がヘリに乗り込む瞬間,去ってゆく者を見送る者たちが,搭乗口までずらっと一列に列を作りだした。一人ずつ握手を求めてきたのである。さようならを口から発しても,ヘリのローターの爆音でとうてい会話にならない。ぎゅっと握手した手を思いっきり引き寄せ耳元に最後の言葉を投げ掛けてくる。われら夏隊とともに常に一緒に作業し,起臥(きが)寝食を共にしてきた仲間を昭和基地に残し,引き上げる瞬間である。夏隊が乗船すると同時に「しらせ」も出航する。このときから越冬隊は約1年間,否応なしに自分たちだけで生きていくことを強いられるのだ。