No.188
1996.11

ISASニュース 1996.11 No.188

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思い出の記

宮川忠良

 1972年出向先から戻り気球部門の業務手伝いを1年間務め,後に斉藤,高中両先生が計画整備(KSC)されたKE班に配属されました。KSCにはベテランの下村氏。これからあとのことは皆様よく御存知なので,1960〜72年まで生研から理化学研究所宇宙線研究室(旧仁科研究室)に出向期間中の思い出をお話しします。研究室では地下(武山),地上(板橋),山(乗鞍),南極の連続観測と航空機,バルーン,ロケット,衛星等の部門のうち担当したのは,地下,航空機,バルーン,ロケット,衛星で実験物理のお手伝いを12年勤めました。生産技術研究所,宇宙航空研究所と名称が変り,西千葉,麻布新竜土町,駒場と給料日には“でむき(出向)”ました。

 トラッキングは,人工衛星 Explorer V号のテレメータ電波の受信。IGY計画で大気圏外の放射線強度測定のためガイガー計数管が搭載されており,1960年3〜8月の間トラッキングをしました。衛星からは19.9915MHzで出力0.6W,地上での受信機はRCA社AR-88型(管球式)を使用,テープレコーダは国産東通工2チャンネルで記録。データ復調後のテープは,空調もない研究室で“わかめ”状となりました。ロックーン実験は,第1期から3期まであり,参加したのは第3期1959年10月,シグマ3型と次年1960年6月,シグマ4型で場所は,今日核廃棄貯蔵として全国的に知られた,青森県六ヶ所村尾駮の砂浜で,ロケットをロープで100E吊り下げ高空で発射する方式で,宇宙線観測班として参加。検出器はガイガー計数管で高圧電源を含めて1.2Lにまとめました。ロケットに組込んでしまえば時々の動作チェックで良いので,バルーンとランチャ班を手伝うことにしました。今回は4型2号機(最終)についてお話しします。放球は朝凪を利用するので夜明前より作業に掛かります。水素注入時は班員かなりの緊張,早朝なので気温低く,放球したがロケット全体を浮かす浮力が弱くバルーンは海の方向に流されロケットを引摺る状態。その時勇気ある数人が肉弾三銃士よろしく腕でロケットを支え波打ち際まで。手をそっと放せば海面50Bぐらいで静かに東方ヘ。バルーンが見えなくなるまで見送りました。昼ごろ放球点真上にバルーンが戻って,肉眼でも確認。高度21Hでロケット点火も見え,実験班員万才。この実験により高度105Hまでの宇宙線強度測定で高度対計数率の貴重なデータを得ました。前年10月実験の宿泊は野辺地一番の宿で,夜明前よりバスで尾駮までの毎日。宿は毎夜宴会(実験班ではない)があり,宿の仲居さん等は夕方になると一番風呂に入りおめかしして御座敷ヘ。御陰様で私等養分一杯の二番風呂で元気一杯。最終実験の宿泊地は六ヶ所村の商人宿か民宿で庭に放飼いの鶏が日ごと少なくなる様子。一泊三食付で450円か,記憶が曖昧です。我が国第1号科学衛星(SINSEI)の宇宙線観測は1971年9月28日軌道に入り「低緯度,低高度における低エネルギー電子の観測」が始まりました。測定器はGMT-Lガイガー・カウンタ,プラスチック・シンチレータ,GMT-H薄窓ガイガー・カウンタ,GMT-Vを措載。測定器は長寿命で膨大なデータを取得することが出来ました。衛星は今だに周回しています。今昔の感。今日では搭載観測器の冷却に液体窒素・ヘリウムを利用するのが常識ですが,当時は全体の打上げ作業に影響するであろう等で思いもよらず,初期の放射線測定用半導体検出器の冷却にはペルチェ効果を利用した冷却器とニッカド電池をラムダ・ロケットに搭載しました。KSC地上装置は長寿命で,発射管制装置(1963年製作)は実験班の信頼とKE班のメンテにより,黙々と(時には沈黙)打上げ作業に運用されています。指令電話も創設期の物で継ぎ足し増設で使われております。送話マイクが古典的なカーボンで地上装置と口ケット搭載装置から発生する電磁波の影響を比較的に受けないで交信出来るのですが,両方とも現代打上げ作業に適応する機種に更新されることを祈って最後とします。

(みやがわ・ただよし)



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