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ISASコラム

第29回
工学実験衛星「ひてん」その2

(ISASニュース 2005年5月 No.290掲載)

ひてん

軌道制御と月スウィングバイ

当初の計画では打上げ後地球を4周半して月と会合するはずでしたが、ロケットの速度増分が計画値より約50m/s不足し、衛星の初期投入軌道の遠地点高度が予定の約50万kmに対し実際には約29万kmと低くなったため、月との会合までの地球周回数を5周半とするバックアップ案を採用することとなりました。

軌道制御は正確に行われ、1990年3月19日5時4分9秒、「ひてん」は月から1万6472kmの距離まで最接近し、第1回月スウィングバイは成功しました。この結果「ひてん」の軌道は、遠地点約72万7000km、近地点約11万6000kmへと拡大されました。第2回目は7月10日に月の前方を横切る減速スウィングバイに成功し、加速と減速の双方を行う二重月スウィングバイを達成させました。その後、GEOTAIL衛星の軌道を模擬した軌道変更実験など、月の重力を利用したスウィングバイ実験も行い、所期の最大の目的を達成しました。

月オービターの月周回軌道投入実験

第1回月接近時に「ひてん」本体から分離して月周回軌道に投入される予定の月オービターは、1月25日以降の数回にわたる点検結果では正常でありましたが、2月21日に負荷電流に異常が発見され、その結果、送信機系に不具合が生じていることが判明しました。

「ひてん」の月最接近に先立つ3月19日4時37分3秒に、地上からのコマンドにより月オービターを切り離した後、内蔵の月キックモータがタイマーにより5時4分3秒に点火されました。この点火と燃焼は、東京大学木曽観測所の105cmシュミット・カメラによる観測で確認され、月オービターは「はごろも(羽衣)」と命名されました。

「ひてん」の月面到達

軌道に乗った「ひてん」は正常で、内之浦の非可視中には衛星に組み込まれたプログラムに 1992年2月15日の第11回目の月最接近時に、「ひてん」は搭載ガスジェット装置を約10分作動させることによって月周回軌道に投入されました。そして、やがて月の向こう側に落下することが予想されたため、搭載残燃料を用い、落下点を月の表側にするための軌道修正を行いました。1993年4月11日午前3時3分38秒、「ひてん」は3年と2ヵ月余りの長旅を終え、「豊かの海」のステヴィヌス・クレータ近傍に着陸してその生涯を閉じました。

深宇宙管制室で、着陸の瞬間まで月面の画像を送り続ける「ひてん」のテレメトリモニター画面を固唾をのんで見守ったことが、脳裏によみがえってきます。

日本を愛したクラウディア・ケスラーさん

「ひてん」には、ミュンヘン工科大学との共同実験であるダストカウンター(MDC)が搭載されていました。これは地球・月空間の微小宇宙塵の計測を行うもので、このためドイツからクラウディア・ケスラーさんという女性の研究者が実験に参加されていました。彼女は日本の文化に大変興味を持ち、実験が休みの日にはいろいろなところへ出掛け(近くの山にウグイスを探しにバードウォッチング、少し足を延ばして宇土神宮参り、等々)、見聞を広めていました。

仕事を終え、旅館「出水田荘」でくつろぐひととき。日本式正座をして、「すきやき」を囲んで乾杯。向かって左よりクラウディア、橋本(正)、後川、田島、前田の各氏。(写真:横山俊一氏提供)

ある日、内之浦での我々の常宿「出水田荘」の夕食に彼女を招いたところ、旅館の女将さんが彼女に着物(和服)を着せてくれました。突然の出来事に彼女はとても喜び、うれしさのあまり我々と一緒になって(飛天の舞?を)踊って、皆を楽しませてくれました。

帰国後、彼女のことが地元の新聞に写真入りで紹介されたと聞いております。まさに日独親善を果たされました。

衛星主任の上杉先生は、月着陸で「ひてん」が生涯を閉じる少し前の1993年4月、「ひてん」のパーティー案内の中で次のように語っておられます。

―胆の冷えるような難関を乗り越え、第1回月スウィングバイ以降は順風満帆、合計10回のスウィングバイ、2回のエアロブレーキ、ラグランジュ点周回、そして昨年(1992)2月15日以来の月周回と、文字どおり天空を駆け巡ってきた「ひてん」ですが、今後月を見上げればいつもそこには「ひてん」があり、何年(何十年?)か後には必ずや誰かが地球に持ち帰ってくれることでしょう。

(井上 浩三郎)