ISAS流 パソコン活用術 1997.4 No.193

No.193
1997.4

ISASニュース 1997.4 No.193

- Home page
- No.193 目次
- 研究紹介
- お知らせ
- 送る言葉
- ISAS事情
- でっかい宇宙のマイクロプロセス
- 東奔西走
+ パソコン活用術
- いも焼酎

- BackNumber

その六 宇宙研のLANの始まり

成尾芳博

■ネットワークは「空気」それとも「魔物」

 この原稿を書こうと思った矢先,「あのー電子メールがつながらないんですが…」と言う電話が入った。「えー,ホントですか? ちょっと待って下さい。あれっ? 私の所からは使えますけど。ダメですか?… 分かりました調べましょう。」と言って電話を切ったのが午前9時。それから走り回ること9時間余り,午後6時半過ぎになってネットワークはようやく復旧した。原因は,Macintoshのメールシステム( QuickMail )にあったのではなく,マルチプロトコル・ブルーターと言うネットワークの橋渡しをする機器にあった。こんな時はパソコンと同じように,とにかくリスタートしてみるのが一番なのだが,やっかいなことに相手は,宇宙研のネットワーク全体の制御を司っている機器であった。やたらにリスタートすることはできないと言われ,確実にその機器が怪しいという物証を集めなくてはならなかった。かくして時間は過ぎゆき,気が付いた時には9時間を経過していたのである。ネットワークは,正常に動いている時にはその有難みを全く感じない,既に「空気」のようなものになりつつある。しかし一方で,不具合が起きると付け焼き刃の知識ではどうにもならない厄介な代物と化す。ネットワークは魔物とはよく言ったものである。

■Mac01メールセンター

 現在宇宙研の計算機ネットワークには,約100台のMacintoshが常時つながっている。その内,67人が,宇宙研の大規模メールサーバーの中ではおそらく最も古いものの一つであるMac01メールサーバーを利用している。所内にはこの他,ユーザー数117名のpubと約100名のadmと言ったUNIXベースの大きなメールサーバーがあるが,Mac01のユーザーはヘビーユーザーが多く,使用頻度からすると今もって所内一ではないかと思われる。ちなみにこの一週間の統計を取ってみたところ,Mac01メールセンターが処理したメールは,1日平均約900通(所外から受信したメール約340通,所外に送信したメール約290通,所内でやり取りされたメール数約260通)であった。受け取ったメールに全て返事をしていると仮定すると,1ユーザー1日当たり平均6〜7通のメールを送受信していることになる。電子メールは,既にそれ程までに身近なものとなっている。
- Home page
- No.193 目次
- 研究紹介
- お知らせ
- 送る言葉
- ISAS事情
- でっかい宇宙のマイクロプロセス
- 東奔西走
+ パソコン活用術
- いも焼酎

- BackNumber

■宇宙研のパソコンLANのルーツ

 遅々として進まないネットワーク化にしびれを切らし,川口先生と共に私設ネットワーク構想をぶち上げたのは1990年1月のことである。有志で相談した結果,接続する機種はNEC製のPC98とMacintoshとすることになり,PC98系は川口先生と石井先生が,Macintosh系は私が世話人となって計画を進めることになった。しかし,当時LANといえば計算機委員会が管理する大型計算機のネットワークしかなかった時代である。まずはパソコン同志をつなげばどんな利点があるのかを宣伝するところから始まった。同年2月には「Macintoshを主体とするLANへのお誘い」と題した勧誘文をA棟3階から8階の全研究室に配布し,希望者を募った。その結果,3,4,7,8階の20研究室が参加を希望し,小規模ではあるが全所的なパソコンLANの枠組みが,1990年3月上旬に出来上がったのである。そこでメールシステムとして採用されたのが,SPLメール( PC98用 )と前述のQuickMail( Macintosh用 )である。

■天井裏の工事士たちに感謝

 ネットワークを発展させるためには,工事に関わる出費を出来る限り抑え,一方で,より魅力ある機能を提供する必要があった。そこでケーブル布設等の工事は全て自前で行うことを計画した。天井裏には,空調機器ダクトを初めとする様々な機器が存在するため,当初施設課は,天井裏に我々が立ち入ることに難色を示した。しかし,最終的にはその趣旨を理解して,天井裏への立入を認めてくれたのである。こうして施設(課)工事ならぬ,私設工事によるネットワークがお目見えすることになった。その後の工事は当然の事ながら,多くの大学院生の協力を得て行われた。しかしながら,後に,「学生の労働力の搾取者!」として,とある研究室の関係者名簿に名前を連ねることになったのは私の不徳の致すところではある。ケーブルを引くのに「天井の吊りボルトの林をくぐり抜けたり」,「隙間20B余りの垂れ壁部分をくぐり抜けたり」と,今から考えるとずいぶん無謀なことをやったものである。しかし,だからこそ現在があることを思うと,やはりやって良かったと思っている。

(なるお・よしひろ)


#
目次
#
いも焼酎
#
Home page

ISASニュース No.193 (無断転載不可)