国際化と国際空港
村上敏夫
1996年度からは,多くの科研費で外国へ出るのが許されるようになりました。今までは文部省の外国派遣に応募するのが普通だった。しかし,数カ月から半年も前に申請しないとダメなことも多く,だから自腹を切る人もいた。ところが1996年度からは,自分の研究テーマで貰った科研費で外に出ることが許されたのである。科研費には若い人に優先的に配分される費目もあり,まだ芽が出ないような研究にもある程度自主的に使える。これは本当に喜ぶべき国際化だ。「研究者の自主的な発想で外国旅費を認めたら,何をしでかすか分かったものでは無い?」 きっと,このような不信感はあっただろう。にもかかわらずこの制度を仕掛けた人に感謝したい。このありがたいお金でノルウエーとドイツをまわった。 研究の話は一切しないが,旅行の顛末を国際化をテーマ に書くことにしよう。
ノルウェーのベンチャー企業を訪ねようと電子メールで連絡をとると,日本人の名前で英語の返事が来た。疑うこと無く日本人と思い,英語に日本語の電子メールを添えて返事をする。すると彼は,ローマ字カタカナで返事を返してきた。確かに日本人だ。ワークステーションの日本語環境がうまく使えない程度に考え,英語での連絡をつづけたのである。日本人である安心感から訪問するノルウェーのこと,オスロのことを聞いた。日本人どうしで英語のメールをやりとりしているのも不自然だが,荻原選手のノルディックでの優勝を誇りに思うとか,ノルウェーで日本人を迎えるのは始めてであり,日本人に会うのを誇りに思っているとも書いてきた。日本に行ったことは一回しかないとも言う。日本人を誇りに思う? 一回? これでもまだ謎は解けなかった。わかってしまえば当たり前? 彼は日系2世のブラジル人であった。日系移民の両親を持ち,ブラジルで生まれ,スイスで物理を学び,ノルウェーの多国籍企業に就職し,英語で仕事をする。これを国際化と呼ばず何と言おう。そして遠い日本に郷愁と誇りを持つ。私もこの人に興味を覚えたのは当然でしょう。彼はぜひ飛行場には迎えに出る。この季節にしか食べないタラの料理の夕食を一緒に食べようとなった。彼とは綿密にスケジュールを相談して成田に向かった。しかし期待はすべて成田空港で無に帰したのである。我々の直前に到着した飛行機のタイヤがパンクし,離陸態勢にいた我々の飛行機は,そこで延々と3時間,滑走路が掃除されるのを持ったわけである。アムステルダムに着いてみると,オスロへの最終便に間に合わず,空港近くのホテルに幽閉された。夕食の約束は消し飛んだ。開港時から複雑な事情があり,私としても一定の理解はするものの,滑走路が一本しかない成田空港の国際化度と,滑走路が無数にある目の前のスキポール空港を比較しながら寝られない夜を過ごした。翌日の早朝便で飛び,仕事は無事完了したが,彼とは立ち話しかできなかった。