No.027
1983.6

我国での宇宙観測のはじまり  
ISASニュース 1983.6 No.027

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- No.027 目次
- 国際地球観測年(IGY)記念号にあたって
+ 我国での宇宙観測のはじまり
- IGYの頃
- ユーゴスラビアにロケット推進薬製造技術のうりこみ(1963年)
- IGYと初期のロケット研究
- 我国の電離層ロケット観測の成果
- 大気光および大気光学観測
- 電磁圏観測
- お知らせ
- 編集後記

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永 田 武  



 もう大分昔のこととなったので,詳しい年月や細かい事柄の順序など私の記憶から失われてしまっている。しかし,IGYに際して『日本でもロケット観測をやらないか』という誘いを受けたのは私自身であることは間違いない。そのような誘いを仕掛けたのは当時IGY特別委員会副会長であった故Loyd Berknerであった。1954年のことである。

 Berknerは地球電離層研究の初期開拓者の一人であり,Carnegie Institution of WashingtonDepartment of Terrestrial Magnetism(DTM)の副所長であった。以前に客員研究員としてDTMに長期滞在したことのある私には親しい間柄の先輩であった。私のDTM滞在中に来訪された前田憲一さんにとっても,同じ電離層研究者仲間であるし,また私と二人でBerknerの御馳走にあずかったことなどもあった。ローマで開かれたIGY特別委員会総会の前に,ロンドンで電離層超高層物理学の国際シムポジウムが開かれて私が出席した折にBerknerから私に話が出たのである。ロンドンでの会に日本から出席した人は青野雄一郎君と私との二人だけだったと思う。まだPiMadery CircusにあったRoyal Society of Londonの古い建物のうす暗い二階の部屋でBerknerと私と二人きりの談合をつづけた。『米国から観測ロケットを供給してもよいから,日本のIGY国内委員会も観測ロケット計画を本気に考えてみないか』という申入れである。私自身はこの話に大いに魅せられたのは言うまでもない。それかと言ってその場でたやすく賛成出来るほどの小さな問題ではない。

 ローマに来て,前田さんと一緒になるとすぐ,この話の相談を始めた。前田さん個人はもちろん大乗気であった。二人で案文を書いて,その当時学術会議会長であった茅誠司先生にお伺いの至急便を送りつけた。後に茅先生ご自身の口から「永田君からの脅迫状」と言われた内容のものであった。つまり『日本も観測ロケットによるIGY観測計画に参加してもよいと表明しても宜しいかどうか,IGY特別委員会総会の会期中に返事がほしい』というお伺いを出したのであるが,若気のいたりで『もし期日までに御返事がいただけなければ,御了承いただけたことと理解して行動します』という旨の文句をつけ加えてしまったのである。これではやはり脅迫状というものであろう。

 帰国すると間もなく,茅先生のオフィスである東大理学部長室で観測ロケット計画を我が国でも推進すべきかどうかについて緊急会議があった。いつの時どの会議でも必ず保守的な発言者はいるものである。この会議でもある有力学者からの強硬な反対論が出た。その当時では出席者の多くの人々にとってロケット観測に関する十分な予備知識を持つという訳には行かなかっただろうと思う。いまも鮮やかな記憶が残っているのは,その会議での前田さんの発言の一部である。『観測ロケット計画によって電気通信工学は革命的な進展をみることは間違いない』という趣旨であったと憶えている。その時私にはこの発言の趣旨を十分に理解し得たとは思わない。しかし,日本の宇宙科学全般すなわち宇宙理学と宇宙工学が急速に発展するにつれて,この前田予言がまざまざと実現されて行く姿をいつも見せられている。

ペンシルロケット(1956年・道川)

 多分,私の留守中に既に茅先生と当時の文部省学術課長岡野澄さんとの間で観測ロケットの話し合いがあったのであろう。その席で岡野さんから糸川英夫さんのペンシルロケットが切り出された。私にとっては初耳の話であった。おそらく茅先生の常日頃の信念であろうと想像するが,搭載計測装置はもちろんのこと,ロケットの機体・推進装置及び通信装置等一切を我が国の理工学の総力を結集してすすめる体制が出来るのならばIGYを目標とする観測ロケット計画に“GO!”を出そうという結論になった。米国からAerobee級のロケットをもらって観測しようなどという無精な案はそのまま立ち消えとなったのである。

 糸川さんは私にとって旧制中学時代の二年先輩である。しかも,私は糸川さんが指揮するハーモニカバンドで彼のタクトのもとにセカンドハーモニカを吹いたことがある。だから私は糸川さんに頭のあがらない関係にある。しかし,ペンシルロケットやベビーロケット時代,糸川さんとのおつきあいに余り遠慮した覚えはない。私自身の記憶はあまり定かではないのだが,その頃私は糸川さんに『IGYが終るまでに観測ロケットを100kmの高さまでは是非ともあげてくれ』との強硬な注文をつけたそうである。ロケット発射場が内之浦に移ってからの彼の述懐であるが,『永田の馬鹿が100などというRound numberに拘泥しやがって。理科の阿呆は困ったもんだ』とむやみと腹が立って仕方がなかったそうである。その述懐のあとで『ボクは当時電離層のE層というのを知らなかったからネ』とつけ加えていた。

IGY完遂の祝宴での寄せ書き(1958年12月)

 私が驚くような順調さで我が国の宇宙科学も人工衛星利用の時期に到達している。はずかしい話であるが,東大宇宙航空研究所が発足しようという方針が決まった時,東大の総長室によばれて『宇宙科学としてはどの程度までロケット観測が完成すれば満足するのか』という質問を茅総長から受けた。私の返事は『500kmの高さまで100kgのペイロードを,研究者の望む時にいつでも打ち上げられればよいのではないでしょうか』というなさけないものであった。私には地球電離圏しか頭の中になかったようである。やはり“理科の阿呆”といわれるのにふさわしいのであろう。

(ながた・たけし 国立極地研究所長) 


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