略歴

糸川英夫(いとかわ ひでお:1912-1999)

1912年(大正元年) 7月20日、東京都で生まれる。
1935年(昭和10年) 第一東京市立中、東京高校を経て、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。中島飛行機に入社し、戦闘機の設計に関わった。また、独力でジェットエンジンを研究。
1941年(昭和16年) 東京帝国大学第二工学部(千葉市)助教授に就任。
1945年(昭和20年) 敗戦により航空機の研究禁止。
1948年(昭和23年) 東京大学教授に就任。
1949年(昭和24年) 音響工学で博士号取得。
1954年(昭和29年) 東京大学生産技術研究所内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空及び超音速空気力学)研究班を組織。

1955年(昭和30年) 4月 東京都国分寺市の新中央工業跡においてペンシルロケットの水平発射実験を行う。
8月 秋田県の道川海岸にて、ベビーロケットの飛翔実験を実施。
1958年(昭和33年) 2段式K-6型ロケットが高度60kmに到達し、IGY(国際地球観測年)に参加。
1960年(昭和35年) K-8-1 高度190km到達、世界初のイオン密度測定
1961年(昭和36年) 日本海側での打上げに限界を感じ、射場候補地を求めて全国を調査。内之浦長坪地区に白羽の矢を立てる。
4月 K-9L-1 高度310km到達
1962年(昭和37年) 2月 東京大学鹿児島宇宙空間観測所起工式
5月 K-8-10ロケット事故(秋田ロケット実験場での最後の実験)
10月 能代ロケット実験場開設
1963年(昭和38年) M(ミュー)ロケットの開発研究に着手。

1964年(昭和39年) 東京大学宇宙航空研究所発足
7月 L(ラムダ)-3-1打上げ、高度1,000kmに到達。
1965年(昭和40年) Mロケット1段目モータ燃焼試験(能代ロケット実験場)。
6月 科学衛星計画発表(日本学術会議宇宙空間研究特別委員会)
1966年(昭和41年) 9月 L-4S-1打上げ失敗
12月 L-4S-2打上げ失敗
1967年(昭和42年) 3月 東京大学を退官。組織工学研究所を設立し、これを機に宇宙開発から引退する。
4月 L-4S-3打上げ失敗
  漁業者との交渉のため、翌年9月までロケットの打上げを中断。
1969年(昭和44年) 9月 L-4S-4打上げ失敗
1970年(昭和45年) 2月11日 L-4S-5号機で、日本初の人工衛星「おおすみ」の打上げに成功。
1972年(昭和47年) 日本シンクタンク協議会代表幹事として、コンファレンス「日本の限界と可能性」を開催。このころ、イノベーション国際会議(東京)での組織工学のアプローチ手法発表、「海洋開発産業技術協会」の立ち上げ、組織工学研究会の全国展開、「逆転の発想」の出版などを行う。

1975年(昭和50年) 62歳から始めた“バレエ研究”の成果として貝谷バレエ団の公演「ロミオとジュリエット」のモンタギュー伯爵役で帝劇デビュー。
1992年(平成4年) 長年手塩にかけたヴァイオリン「ヒデオ・イトカワ号」を完成させ、80歳の誕生日を期して、サントリーホールでコンサートを開催。
1995年(平成7年) 長野県丸子町の山荘に移り住む。国際音楽村の設計に携わり、これを完成させる。
1999年(平成11年) 人類の未来・日本の将来に深い憂慮を抱く一方、若い世代の活躍に大きな期待を寄せながら、2月21日療養中であった長野県丸子町の病院で逝去。享年86歳。
2003年(平成15年) 5月9日 M-V-5号機で打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」がサンプルリターンを行った小惑星25143は、糸川英夫博士にちなんで同年8月「イトカワ」と命名された。

糸川先生のこと(松尾 弘毅)

過日、内之浦宇宙空間観測所の開所50周年記念式典に続いて、同所内に建立された糸川英夫先生の銅像の除幕式が行われた。先生の生誕100年にも当たり、同先生に関するいわば第3次ブームを象徴する出来事であった。・・・本文を読む

 

関連本

糸川英夫 著

  • 航空力学の基礎と応用(1944年,共立出版)
  • 逆転の発想(1974年,ダイヤモンド・タイム社)
  • 復活の超発想(1992年,徳間書店)
  • 八十歳のアリア(1992年,ネスコ)
  • 糸川英夫の創造性組織工学講座(1993年,プレジデント社) 他多数

的川泰宣 著

  • やんちゃな独創(2004年,日刊工業新聞社)
  • 逆転の翼 ペンシルロケット物語(2005年,新日本出版社)

金澤磐夫 編

  • 人間糸川英夫博士とは〜♪(2003年,博秀工芸)