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特別寄稿 糸川先生のこと(松尾弘毅)

過日、内之浦宇宙空間観測所の開所50周年記念式典に続いて、同所内に建立された糸川英夫先生の銅像の除幕式が行われた。先生の生誕100年にも当たり、同先生に関するいわば第3次ブームを象徴する出来事であった(その模様についてはISASニュースの拙稿を参照されたい)。

第1次ブームは、もちろん、ペンシルロケットの実験に始まり初の人工衛星「おおすみ」に至る我が国宇宙開発の黎明期における先生のご活躍によるものであり(残念ながら先生は「おおすみ」の成功を見ることなく東大を去られたが)、第2次は、退官後組織工学研究所を創設され1978年の著書「逆転の発想」が大ベストセラーとなった頃、第3次は、最近の「はやぶさ」による小惑星探査において目的の小惑星が「イトカワ」と命名され、我が国宇宙開発の開拓者としての先生のご業績に再度思いが致されたことによる。

以下は、糸川先生についての私の思い出である。私の直接の体験のみに基づいており、当時の私の立場を考えると話の奥行きに欠ける憾みはあろう。頭書の集まりで、自分が、先生の謦咳に接した現存の最も若い世代に属することを再確認したこともあって、ちょっと書いておきたくなったというところである。

私が指導を仰いだ5年間先生はすでに大変にご多忙であり、思い出も無尽蔵にあるわけではない(むしろその逆)。ISASニュース等の自稿からの援用があることはご容赦いただきたい。ただし、最後の一行はオリジナルで、そのあとに続くとすれば「やってはいませんが、気にはなっています」である。

1962年春、当時東大生研の糸川研究室に大學院生として配属された。航空学科の就職説明会で生研グループの糸川、玉木、森、三先生のお話があり、そのころ大変曖昧な状態で卒業を迎えようとしていた私が飛びついたというところである。確か、上野で会議中の先生にその室外で面接を受けるという、いかにもそれらしい出会いであった。先生は先生で会議中に面接時間を設定されるし、私は私で律義というか無神経というか、そこにノコノコと入って行ったのであるから。

外部での公式な動きは別にして、宇宙研内部ではこの年「人工衛星試案」の策定が糸川先生をリーダーとして進められていた。設問は、5年後に重量30kgの人工衛星を打ち上げるためのロケットは如何に、である。秋葉助教授の指導のもと、長友先輩の驥尾に付して大いに実働した。性能評価に基づき各段ロケットの大きさ等基本諸元を決める、いわゆる初期設計である。月曜の午前中に設計会議の開かれることが多く、日曜から月曜の朝にかけては、準備のため生研で暮らすことになった。当時既に六本木は深夜の食事に苦労しない所だった。

これが、全段固体の4段式ロケットM-4Sの構想である。第1段の直径は1.28mが適当との検討結果に対して、糸川先生の決断で余裕を見て1.4mと決められたが、これがこの後長く固体ロケットの直径を律することになった事を考えると、非常に貴重な余裕であった。すなわち1966年5月に衆議院科学技術振興対策特別委員会の宇宙開発に関する小委員会(中曽根康弘小委員長)において「・・・東京大学は、1.4mを超えるロケットの開発は行わないものとする・・・」と決定されたことが長く祖法として守られ、この制約の下、宇宙研はMロケットをM-4S、3C、3H、3Sと進化させてきたが、M-3SIIの開発を承認した1979年12月の宇宙開発委員会了解事項では「…なおこれを以てMロケットの開発を完了する」とされた。

M-3SII 設計の過程で生じた若干の能力不足を解消するため、最終案では第3段直径を1.5mにしたくなった。ちょっとした不注意だったのだが、1.4mを超えるという意味でこれが問題となり、文部省の重藤審議官のお供で科技庁の担当課に釈明に行った覚えがある。どう釈明したかは忘れてしまった。逐次改良を重ねてきたMシリーズにあって、能力において最も飛躍の大きいM-3SIIが、前世代のM-3Sと非常に近い(急激な変化を感じさせない)名前を有していることに当時の雰囲気が感じられる。

この制約が撤廃されるには、1989年6月の宇宙開発政策大綱において「・・・1990年代以降における科学ミッションの進展に対応して使用するためMロケットの大型化を図る」その際「…内之浦における打ち上げ可能範囲及び全段固体ロケット技術の最適な維持発展等の観点を考慮しつつ同研究所において引き続き行う」とされるのを待たねばならなかった。背景には、科学衛星が成功を重ねその成果が広く認められたこと、特に90年代以降の惑星ミッションを念頭に置いて、Mの大型化への要望が科学コミュニティーの中で高まったことがあるが、委員会で取り上げられたについては、水面下で多くの支持が表明されたものと理解している。ここで直径について合理的な基準が導入されたことは、宇宙研と宇宙開発事業団、文部省と科学技術庁の関係において画期的なことであったと考えている。

さて、糸川先生に戻る。研究テーマについては先生からいくつかの分野が提示されたが、最後のシステム工学だけが耳に残り、当時耳新しかったシステム工学を専攻することになった。追々に判ることだが、システム工学とは大規模システムの設計・運用に関わる手順の学問、心構えの学問である。勿論、そこで示される普遍的な要素が欠ければ事は成らないが、一方、システムとはあくまで個別性の高いものであり、打ち出の小槌のようにすべてのシステムに適用可能な具体的な手法などはない。心構えに至っては数々のシステムに接することのよって肉付けされていくものである。

「システム的な見方」とは「全体を見渡すこと」であり、それ以上でもそれ以下でもない、と割り切って、私自身は、普遍的な方法論ではなく軌道工学を足場にして実プロジェクトの遂行に没入していく。特にその分野の専門家が欠けていたこともあり、「軌道工学」を足場にすることになった。これは当時の先達がいわば私のために用意して下さった造語である。受動的に回帰的な運動を繰り返す自然天体に対して、人工天体ではロケットの推進力を用いて軌道を意図的に変更することができる。すなわち、軌道の設計ができるということである。余談であるが、宇宙開発という華やかな応用分野を得て、最適化理論は大いに発展することになった。

システム工学に関連して、「逆転の発想」の発行年を調べているうちに、ペンネーム磯野及泉氏の「40年遅れの読書-糸川英夫著「逆転の発想」を読んで」に出会い、面白く読ませていただいた。なかに「…どうやら組織工学研究所は今は無く、糸川先生が亡くなって以降、残念ながら霧消したというのが実態の様である。博士自身の個人的名声に支えられて存続し、引き継ぐ人に有力な人が出ず、成果を上げることなく終わったのであろう。」とある。慙愧の念なしとしない。

さて、私が生研に居た2年間は、電算機の導入前夜から導入初期にかけてであった。この間、OKITAC 5090が導入され、3次元6自由度の軌道計算プログラムが整備されて、それまで不可能であった正確な軌道計算ができるようになった。ただ何としても演算速度が遅いので、10分程度の実飛行時間に対する計算に5〜6時間を要し、専有時間を確保するためまたぞろ徹夜の連続となった。この話がどこからか先生のお耳に入り、「あなたの時間を金で買いましょう」ということで、高速演算機が導入されるまでのある期間、性能計算は外注されることになった。このような格好のよい科白をいう機会についに恵まれなかったのは、まことに残念である。

M計画と並行して、LD-2と称する直径2mのロケットの構想が検討されたことがある。先生の頭の中には既に惑星間飛行があったのか、このロケットによる火星・金星への飛行計画を検討するようにとのご下命があり、簡単なモデルを用いて可能性をあたったことがある。1962年12月にNASAのマリナー2号が、金星の35000km近傍を通過した頃のことである。これが、私が惑星間飛行に関心を持つようになった出発点で、その後の我が国における惑星間飛行の最も熱心な推進者としての私の自負を許して下さるならば、我が国が太陽系の探査能力を有するに至るきっかけを与えて下さったのは糸川先生ということになる。

その後20余年を経てハレー彗星探査計画が実現して、我が国は惑星間空間航行の技術的基盤を確立し、近年の「かぐや」「はやぶさ」の成果へとつながっていく。残念ながら私自身が惑星間ミッションに専心することは叶わなかったが、諸ミッションを通じて川口淳一郎君のような才能を得たことを以て瞑すべきであろう。

1966年に打ち上げられたL-4S-1号機は失敗に終わった。小型のL-4Sは実はM-4Sの技術試験機という位置づけであったが、この機自体が初の人工衛星の打ち上げに成功する可能性への期待が大きく、その反動として、2号機へと続いた失敗は、某メディアの大ネガティブキャンペーンと相俟って、先生の東大辞任へとつながってしまった。1967年の事である。このあと組織工学研究所を設立され多方面で活躍されたが(「逆転の発想」もこの頃の所産)、辞任後は宇宙・ロケットと見事に縁を切られた。

公式の場に出られたのは、内之浦の開所20周年記念式典が最初にして最後ではなかったろうか。その時もヘリコプターで来てまた帰るという、まことに颯爽としたものであったが、気が変られるといけないというので私がお迎えに参上した。その時「衛星がなんでもっと小さくなりませんかね」と会話したことを憶えている。

先生がお辞めになるまでの5年間、謦咳に接した時間の総計は決して長くはない。先生のお忙しさは有名であり、いわばタッチ・アンド・ゴー的な接触しかできなかったが、それでも大変密度高く鼓舞されたものである。

内之浦での実験期間中にメニエル氏病が発症したことがある。初めてのことで何の事やら判らず宿で寝ていると、先生がミカンをたくさん持って見舞いに来られ、自分もそうだがカリウムの不足が原因らしいのでこれが効くということであった。先生の先見性、決断力、いずれの資質も受け継ぐことのできなかった不肖の弟子の唯一の師匠譲りである。

現状に何とおっしゃるであろうか。「あなた、まだやってるんですか」でなければよいが・・・。

松尾弘毅
宇宙科学研究所名誉教授。1962年4月に当時六本木にあった東京大学生産技術研究所の糸川英夫先生の門をたたき、軌道工学とそれをベースにした宇宙システム工学を専攻。常にミュー・ロケットの開発とわが国の科学衛星計画の中心的役割を果たす。
宇宙科学研究所所長、宇宙開発委員会委員長、日本航空宇宙学会会長、国際宇宙航行アカデミーIAA副会長など歴任。