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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第359号

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ISASメールマガジン   第359号       【 発行日− 11.08.09 】
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★こんにちは、山本です。

 相模原キャンパスで4月から続いていた「はやぶさ」の映画撮影が、7月末で主要な撮影は、ようやく終了しました。
 同時期に3つの会社が「はやぶさ」をテーマに映画を制作するという今までに無いことです。
 それだけ「はやぶさ」のプロジェクトが伝えたインパクトが大きかった証拠だと思います。
 これからもガンバラなくては

 今週は、宇宙の電池屋・宇宙探査工学研究系の曽根理嗣(そね・よしつぐ)さんです。

 ガンバって【一気呵成】に書いていただきました。その分文量も多くなってしまったので、2週掲載となりました。

── INDEX──────────────────────────────
★01:宇宙の電池屋 −襷− その1
☆02:相模原キャンパス特別公開2011、終了
☆03:「はやぶさ」カプセル等の展示スケジュール
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★01:宇宙の電池屋 −襷− その1


 なでしこジャパン、おめでとう!

 僕が子供のころ、静岡県に育った僕は、犬っころのように、毎日ボールを追いかけていた。いつからサッカーを始めていたのか、そんなことは覚えていない。物心がついたときには、僕はドリブルをしていた。

 でも、サッカーは果てしなくマイナーなスポーツで、僕の生まれた静岡県東部では、野球部とサッカー部がグランドを取り合い、決着をつけるためにサッカーの試合をしてサッカー部が負けてしまい、結局サッカー部は廃部になったりしていた。

 僕は、毎晩サッカーボールを抱いて寝るほどにサッカーを愛していたけれど、中学校ではテニス部に入った。なぜなら、僕の学区の中学校では、サッカー部がつぶれてしまっていたからだった。


 さて、僕が犬っころになっていたそんなころ、静岡を舞台にした少年サッカーの漫画が出た。
「ボールは友達」が口癖のキャプテンが、拳を握りしめて叫んでいた。
「夢は、ワールドカップ優勝だ!」
いくら漫画とはいえ、突拍子もないこのセリフに、返す言葉を失った自分を覚えている。
・・・・・無理無理無理無理無理無理無理無理、無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理。


 日本において決してメジャー・スポーツではない女子サッカーが快挙を成し遂げるまでには、多くの先人達の礎があったに違いない。時に挫折し、将来に絶望したこともあったであろう。最後にピッチに立っていた人達に結実した、無名の中に終わった幾多の女性達、またそれを支えた男達の思い、いかばかりか。

 保証されない夢を追い、「襷」を繋いできた人たちがいたことが、すばらしい。


 さて、優勝した今、この感動をかみしめて敢えて言わん!
「やっぱり、『一番』でしょう!」


 先日、スペースシャトル・アトランティスが地球に戻ってきた。

 思えば、僕が中学生の時、コロンビア号の初の打ち上げが、僕の人生を決めた。
夢中で勉強した。勉強することこそが、僕を夢の世界に近づけるドライビング・フォースだった。

 大学院の時、合コンで自分の夢を蕩々と語った後、女の子にシラっと言われたことがある。
「私は地に足を付けた人が良いわ。」
うるへい!飛んで、見せたるワイ。


 30年を経て、このときが来てしまった。

 人々は、翼をもった乗り物が宇宙と地球を行き来していた出来事を、覚えていてくれるだろうか。

 子供達には、一度、翼をもった乗り物が宇宙から戻る姿をどうしても見せておきたくて、休みをとり、シャトルの着陸を見に連れて行ったことがあった。

 あの時のことを、子供達は、覚えていてくれるだろうか。

 事故もあり、色々な議論があった中での技術であったことは確かだけれど、一つの時代を築いたことは間違いない。宇宙へ行くことを夢見る僕としては、また宇宙へ行くことが遠くなってしまったのだと、一抹の寂しさを覚える。次の世代への「襷」は、どうやって繋がれるのだろうか。


 そんなかんなの最近、ISASメールマガジンの山本(ごめん、身内なので「敬称略」)から電話が来た。
「曽根さん、どう?『はやぶさ』も還ってきて一年だし、なんか書かない?」
「いや、僕、けっこうな数、書きすぎているような・・・、ちょっと考えてみますが、書きすぎていて、まずくないですか。」
「まあ、ちょっと考えてみたら?」
「はい。」

 それから3週間がたった。でも、書けない。別に、「物書き」を気取っている訳ではなく、本当に書けない。生活全般を通じて、自分自身に自信がなくなっていた。


 3月11日の地震から、いろいろなことがあった。

 地震に端を発したこともあるし、そうでないこともあった。仕事でも、プライベートでも、凄く色々と悩むことが多かった。


 あのとき、僕は東京のとある高層ビルにいた。筑波と東京と相模原を繋いだテレビ会議の最中だった。

 最初に揺れたのは筑波だった。
(筑波)「あ、地震だ。揺れてる。」
(東京)「おっと、こちらも揺れてきた。相模原?」
(相模原)「あ、揺れてきた・・・・・」

 そこで筑波が停電し、僕たちの会話は途切れた。でも僕たちは必要な議論を終え、議事録を残し、その後は会議室に泊めていただいた。

 静岡県出身の僕は、地震には慣れている。でもあの時、震源から遠く離れた東京に居てさえ、本当に「怖い」と感じた。

 向かいのビルと、こちらのビルは逆向きに揺れていた。位相が合わない恐怖。

 こんなふうにしてフッと人生って終わってしまうのかなあ〜。

 揺れに耐える高層ビルの技術力に感心しながらも、そんなことを思っていた。


 あの日以来、世の中はそれぞれに変わったと思う。

 地震、津波、原発、電力不足。
僕の小さな世界である家庭でも、何をどうしてよいか、意見が食い違う。

 僕は、科学でスタートした問題は、科学が解決をするのだと信じている。決して科学万能などとは思っていない。不完全だから探求を続けるのが科学だと思っているからだ。

 今、きっと、妥協することなくあくまで困難を超えようとする、そんな本能で、現場のただ中に身をおいて頑張っている同世代の技術屋たちがたくさんいるはずだ。

 とても近しい親族には、福島の富岡に住んでいる者がいた。連絡はとれず、どこにどうして居るかも解らない。川内や、郡山の避難所がテレビで映る度に、目をこらして姿を探した。

 そもそも、この地震が静岡で起こっていたとしたら、僕は父母に、また友人や故郷のために、どうしていただろう。

 故郷を失った悲しみは深い。家族を思う不安も大きい。そもそも、自分自身がどうしたら良いのか、僕が守れるものは何か。今、何ができるのか。どうするべきなのか。

 これらの気持ちは軽重の付けがたい、位相の違うところで苦い気持ちを増すばかりだった。


 つらい。


 実は、メールマガジンの記事は、結構な時間をかけて書かせて頂いてきていた。
学術論文だと、書きたいこと、書かなければいけないことが決まっているので、土日打ち抜きで、「ダーーーーー!」と書き上げたりする。

 メールマガジンでは、書いては推考し、僕なりに「書いてはいけないことを書いていないか」など、考えてしまったりする。(それにしては、周囲からご指導を頂くこともあるが・・・・。)

 今回は、何度か書いては、
「いかん、駄目だ。こんな暗い文章、出せん。」
と、投稿できずにいた。
文章が暗い方向に傾いてしまう。

 今まで僕は、どんなことがあっても、自分の明るさだけは貫いてきた。駄目だ、こんな僕は、嫌いだ!


 先日、また山本(ごめん、身内なので「敬称略」)から電話を頂いた。
「曽根さん、どう?」
「すみません、なんか書けなくて。」
「どうしたの。ほら、ヤマトのブルーレイも出たじゃあない。あれとか見て元 気出したら。」
「う〜ん、何度も見ているんですが、・・・・・今思うと、何か暗示的なストーリーに感じてしまって・・。」


 頑張ろう!


 そうだ、映画と言えば、「はやぶさ」だ。もうじき、順次、公開が始まる。

 そうだ、我々には「はやぶさ」がある。

 僕が中学生になるちょっと前、そうだあのとき、彗星帝国が地球を攻略しようとしたとき、決戦に臨んだ地球艦隊は、消滅した。それをモニターで見た人々は、口々に叫んでいた。
「我々にはまだ、ヤマトがある。」
「ヤ・マ・ト! ヤ・マ・ト! ヤ・マ・ト! ヤ・マ・ト!・・・・・・」


 今こそ言おう。我々には、「はやぶさ」がいる。

 強引なイントロ、相変わらず長いイントロだろうと、どうか許してほしい。無茶ぶりだろうとなんだろうと、元気が出ないときの「はやぶさ」だ!今回は、ダーーーーっと、行こう!(さあ、一気呵成で書き上げよう!)


(関係者のみなさん、ご容赦下さい。)


【次週(ISASメールマガジン 第360号)へ つづく】

(曽根理嗣、そね・よしつぐ)

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※