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ISASコラム

宇宙・夢・人

宇宙からの第一声を手話で

(ISASニュース 2010年2月 No.347掲載)
 
科学衛星運用・データ利用センター 衛星運用グループ 長谷川晃子
はせがわ・あきこ。1982年、東京都生まれ。2003年、筑波技術短期大学情報工学専攻修了。プログラマーとして企業勤務を経て、2007年、JAXA入社。衛星の運用計画の作成などを担当。
Q: 衛星運用グループでは、どのような仕事をしているのですか。
現在6機の科学衛星が運用中です。そして衛星と通信できる地上局のアンテナは4つあります。「いつ、どの衛星が、どのアンテナを使って通信するか」という運用計画案を立てることが、私の主な仕事です。長期運用会議が2ヶ月に一度、短期運用会議が毎週行われ、各衛星の運用担当者が集まって運用計画を決定します。
Q: 調整が難しそうですね。
私が運用計画の担当になったのは2009年6月です。皆さんと相談しながら、運用計画が決定されるまでの流れを変えました。以前は、各衛星の運用担当者が会議で希望を出し、その場で調整していたため、3時間くらいかかっていました。忙しい方ばかりですから、時間を短縮して負担を軽減できないかと考え、私が前もって案をつくることになりました。会議では、複数の衛星の運用時間が重なってしまった場合や、通信条件は悪いが運用したいなど個別の調整だけで済み、1時間かからずに終わるようになりました。
 新しい方法を取り入れた初めての会議の後、ある方から「ありがとう」というメールを頂きました。従来のやり方を変えるのは大変でしたが、苦労が報われとてもうれしくなりました。
 私は、生まれつき両耳が聞こえません。相手の唇の動きを読み、自分で発声することで、会話はできます。しかし、会議の内容をすべて理解することは難しく、議論に入れず悔しい思いもしました。いかに会議の内容を理解するかが、私にとっての課題です。筆記通訳をしてもらうこともありますが、いつもお願いできるわけではありません。音声認識ソフトを使ってみたり、試行錯誤しながら良い方法を探しているところです。
Q: どのような子どもでしたか。
宇宙が大好きでした。両親が私にいろいろな経験をさせようと、プラネタリウムや天文台に連れていってくれたおかげです。中学生のときに向井千秋さんが宇宙へ行き、私も宇宙飛行士になりたいと思うようになりました。しかし、耳が聞こえないことで、その夢はあきらめなければいけませんでした。
 せめて宇宙にかかわる仕事がしたいと、宇宙関連への就職実績がある筑波技術短期大学に進み、プログラミングを学びました。視覚と聴覚に障がいのある人のための大学です。私は小学校から高校まで普通学校に通っていました。その選択をしてくれた両親に、とても感謝しています。しかし、コミュニケーションの難しさから、仲のいい友達の後ろにいることが多かったのも事実です。大学での授業は手話で行われるので、すべてを理解し、自分の考えも自在に伝えることができました。また、大学は国際交流が盛んで、アメリカやヨーロッパ、中国を訪れ、現地の学生と交流することもできました。コンピュータの知識がなかった私にとって、プログラミングの勉強は難しく苦労しましたが、短期大学の3年間で視野が大きく広がりました。
Q: どのような経緯でJAXAに入ったのですか。
卒業後は、プログラマーとして企業で働いていました。偶然、JAXAで障がい者採用があることを知ったのです。それが締め切りの4日前。急いで書類をそろえ、応募しました。実は、自分のすべてをぶつけて駄目だったら、これで宇宙への未練を断ち切り、プログラマーの道を究めようと決めていたのです。採用の通知を頂いたときは、信じられませんでした。
Q: JAXAに入って、いかがでしたか。
宇宙は好きでしたが、専門的な知識はまったくなかったので、必死で勉強しました。今ようやくスタートラインに立てたかな、と思っています。もっと勉強をして、また「ありがとう」と言ってもらえるような仕事がしたいです。
 一般公開では私にしかできないことをやろうと考え、手話で案内をしました。前回案内したのは友人だけでしたが、少しずつ広げていければと思っています。私がそうであったように、耳が聞こえなくても、宇宙のことを知りたい、宇宙にかかわる仕事がしたいと思っている子どもたちがいるはずです。そういう子どもたちが宇宙に触れたり、夢を実現するお手伝いをしていきたい。
Q: ご自身の夢は?
やっぱり宇宙に行くことです。「宇宙からの第一声」は手話も用いて、聞こえない人も含めたさまざまな人に伝えられたらと思っています。