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ISASコラム

第17回
太陽物理学衛星「ひのとり」

(ISASニュース 2004年3月 No.276掲載)

ひのとり

1981年2月21日9時30分、M-3Sロケット2号機によって打ち上げられたASTRO-A衛星は、近地点高度576km、遠地点高度644km、軌道傾斜角31.3度、周期96.9分の軌道に投入され、「ひのとり」(火の鳥)と命名されました。

「ひのとり」は、わが国初の太陽観測衛星で、重量190kg。硬X線像を中心とした太陽フレアの多角的観測を目的として、1980〜81年をピークとする第21太陽活動期を狙って打ち上げられたものです。

搭載した太陽X線二次元像観測装置(SXT)をはじめとする8個の観測機器は、太陽フレアを総合的に観測できるよう、構成に十分配慮されていました。軌道に投入された「ひのとり」の搭載機器はすべて正常で、順調に観測を続け、多くの良好な太陽フレアデータを記録しました。

ワイヤーカッターの不具合と改良試験

1980年12月には、半年にわたる総合試験が最終段階に入りました。内之浦へ運ぶ寸前に行った太陽電池パドル展開試験で、パドルを押さえているワイヤーが切れない不具合が発生しました。検討の結果、その原因はワイヤーを切るカッターの不具合によるもので、ヨーヨー・デスピナにも同じものを使用しており、先に打ち上げた「たんせい4号」でスピンダウンが2段階で下がった不具合もこのカッターによるものと推定されました。

 緊急に対策会議を開き、ハードなカッターの試験を繰り返しました。刃の材質や形状を変えたり、刃を受ける台座の材質を硬いものや軟らかいものにしたり、またワイヤーの材質やテンションを変え、高速度カメラを使って多くのデータを、夜を徹して取得しました。この試験で中心的な役割を担ったのは、今は亡き斉藤敏さんでした。関係者の努力によって出来上がった改良カッターはフライトに間に合い、軌道上ではヨーヨー・デスピナの作動と太陽電池パドル展開が正常に行われました。現在、軌道上で何の抵抗もなく行っているこれらのオペレーションも、当時苦労して確立したシステムによるものと思います。

内之浦での磁気試験

打上げ3週間前に内之浦に到着した衛星は、衛星整備センターへ運ばれて、ロケットに結合するまで綿密な最終チェックが行われました。その中に衛星を磁気シールドルームへ運び、衛星がどれだけ帯磁しているかをチェックする作業がありました。コンテナに入れた衛星を、実験場の端にあるシールドルームまで、おそるおそるミュー橋を渡り谷を越え、2kmの道のりを約1時間かけて運びました。衛星をコンテナから取り出し、衛星との余裕が数cmしかない狭い入り口からシールドルームへ時間をかけて搬入し、磁気試験を行いました。無事終了したとき、衛星主任の田中靖郎先生は「こんな危険な作業は、ほんとはやりたくない」と本音をもらしておられました。大切に育てた「箱入り娘」に嫁入り前に何かあったら大変……という心境でおられたと推察します。

太陽X線二次元像観測装置(SXT)

「ひのとり」の命名

この名前は漫画「火の鳥」にちなんだもので、命名する前に、手塚治虫事務所に電話で仁義を切りました。手塚さんは快く了解してくださいました。小生も「ベレー帽をかぶると手塚さんによく似ていますよ」と言われたこともあって、気に入った名前でした。また、亡くなった田中捷雄さんとともに「ひのとり」の命名の立役者になった的川泰宣先生は、「『ひのとり』の得票率は80%以上で、少し派手ではないかという意見もありましたが、結果的には大変好評でした」と当時のことを語っています。

「ひのとり」は高い精度で太陽フレアを観測し、大きな成果を上げました。1981(昭和56)年度から組織を新たにして文部省宇宙科学研究所として発足するのを前に、東京大学宇宙航空研究所の最後の衛星にふさわしく、世界の太陽研究に大きな貢献をして役割を立派に果たしました。

(井上 浩三郎)

手塚治虫作漫画「火の鳥」 手塚プロダクション