No.294
2005.9

ISASニュース 2005.9 No.294 

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思い出と願い 

宇宙科学研究所名誉教授 平 尾 邦 雄 


 8月初めのある日,『ISASニュース』の「いも焼酎」欄に書いてほしいとの依頼が舞い込んだ。毎号の『ISASニュース』を隅から隅まで読んでいるので,いろいろな人の顔が浮かんでくる。特に最近は垣見さんや折井さんが書かれており,昔のことを思い出させてもらっている。

 ところで,今年は不思議に「何十年」ということが多い。あの思い出すのも嫌な原爆60年,一緒に書いては申し訳ないが「ペンシルロケット50周年」,私が東大宇宙航空研究所に移って40年,『ISASニュース』も間もなく25周年である。そして,私にとっては宇宙研退官20年なのである。こんな年に「いも焼酎」への投稿を頼まれたのも,何かの縁かもしれない。私もすでに83歳という年になってしまった。

 私のロケットとのかかわりは,K(カッパ)-8型からである。実験場は秋田県道川で,ロケットは馬車で運ばれてきたし,実験場内の移動はほとんど人力に頼っていた。ロケット台車は実験班の人が押していた。K-8型は初めて電離層に達するロケットであったが,その後行われたワロップス実験場での初の日米共同実験で使われたロケットに比べても,性能的には劣ることはなかった。このK-8型ロケット実験では,当時の電電公社電気通信研究所と郵政省電波研究所が共同開発し横河電機製作所によって作られた正イオンプローブ,後に電子密度と電子温度を同時に測れるプローブを搭載して,世界でも最も信用できるデータを得ていた。K-8型1号機ではいわゆる開頭がうまくいかなかったので,2号機のとき,秋田道川実験場の砂浜で開頭テストを日産の板橋技師と一緒に行ったことを今でも思い出す。このことは,後にインドで行ったロケット実験でも大いに役に立った。

 このK-8型実験のデータが発表されると早速NASAゴダード研究所のサーブ博士が秋田に見学に来て,間もなく日米共同の研究観測の話がまとまり,私たちが足かけ3年にわたりワロップス島にあるロケット実験場においてナイキケージュン3機,アエロビー1機,ジャベリン1機を使って行ったのである。おそらくこれは,我が国における初の本格的な国際共同実験だったろう。そのとき一緒だった横河電機製作所の村岡技師も,若くして亡くなられた。大変残念なことである(写真参照)。

ナイキケージュンペイロード。左から村岡技師,サーブ博士,筆者。

 今からちょうど40年前に,私は電波研究所から東大の宇宙航空研究所に移った。それからはまったくロケットや科学衛星事業に没頭する羽目となった。それまではいわば外野席から応援していたのが,以後はその一員として,明けても暮れても宇宙観測事業のことばかりを考えるようになった。小田,大林両君らと一緒に工学のメンバーと絶えず話をしながら,どのようにして我が国の宇宙科学を支えていくかが,私たちに与えられた命題だった。このような理工協力の態勢が,今の宇宙研の基礎となったと思っている。

 先日,「ペンシルロケット50周年記念」の集まりがあった。会する者300人程度だったろうが,日ごろお会いすることのできないような方々と短いながらお話しする機会があったのは,大変うれしいことだった。その中で,ちょうど臼田のアンテナを計画したときの文部省の担当官だった重藤さんと,それこそ20年ぶりにお会いし,当時の論争を思い出した。もちろん担当の電気の先生方もお話しをされていたが,理学の私たちがかなり強引に必要性を迫ったことを思い出したし,それを受け入れていただいた重藤さんたちにとっても大きな思い出になったのではないだろうか。最近新しい体制になった宇宙研でも,ぜひ理工一緒になって与えられた「宇宙科学研究」という天職を計画・実行していただきたい。

 私の退官20年に当たる今,特に思い出の多い『ISASニュース』に投稿できるようにしてくださったことに誠に感謝しながら,このとりとめのない一文を書かせていただいた。ありがとうございました。

(ひらお・くにお) 


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