No.265
2003.4

ISASニュース 2003.4 No.265

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ほむら立つ

的 川 泰 宣  

 母が必死で走っている。その背中が激しく揺れる。周りは火の海。頬が熱い熱い風に叩かれている……。その後繰り返し夢に見た情景が私の頭に刻まれたのは,昭和20年(1945年)7月1日のことだったらしい。この日,呉の町はアメリカ軍からの大空襲を受けて焼け野原になった。

 空から目立たないようにとの配慮から灯火管制をしていた当時の家庭では,「ウーウーウー」と空襲警報が鳴り響くと,それっとばかりに防空頭巾をかぶり,一家打ちそろって防空壕へと駆け込む毎日であったらしい。

 私の生涯の記憶の一番初めに陣取っているあの日,父をフィリピン戦線に送り出した後で,母と二人の兄と一緒に近くの防空壕に避難した。私を膝に抱っこしていた母が,隣で泣き叫ぶ女性に目をやった途端に凍りついた。あろうことか,おそらく私と同い年くらいの子どもがぐったりと首をうな垂れている。

 「窒息死だ」と直感した母は立ち上がった。隣にうずくまる兄たちに「出るよ!」と叫んだが,二人は動かない。(外は爆弾の雨が…)の意識が足を竦ませているようだ。母は幼い私をおんぶして出口へと強引に進んだ。兄たちも,降り注ぐ爆弾よりも母を失くする方が怖かったと見えて,気がつくと,火の海の町へ一家4人で飛び出していた。

 隣の防空壕までの500mくらいの距離をひた走るこの時の母の背中が,私の記憶の最も古いものである。

 一夜明けて,すっかり焼けた呉の町を,小高い場所から眺めた私が,「焼けた,焼けた!」と踊りつづけるのを,一瞬のうちに希望を失った大人たちが,さびしい微笑を浮かべながら見守っていたという。母の背中以外は,すべて後で聞いた話である。

 母は,毎日の空襲警報で不眠症に陥った私を,父の田舎へ疎開させた。広島と岡山の県境に近い比婆郡の東城である。老年期の山並みに抱かれた,母の懐のような村。誰一人知る人のいない環境で,おそらく最初はおずおずと,やがて幾分は伸びやかに,私はしばらくを過ごした。

 母が東城に私を連れて行った日,帰ろうと見回すと私がいない。仕方なく歩き出した母が振り返ると,雨戸の隙間からじっと見送る私の視線があったという。母は泣き崩れながら長兄を抱き寄せつつ帰路についた。(もう母と連れ立って帰ってはいけないんだ)ということを雰囲気で感じ取っていたものらしい。寂しい3歳の直感であった。

 どうも日本は負けるらしい…呉の町にもちらほらとそんな噂が流れ始めた日,母は一人で暮らす末っ子の顔を見て来ようと思い立った。呉から呉線で広島に出て,芸備線に乗り換えるのだが,広島市内に住む友人を訪ねようかとの思いは,わが子が待ってるからという気持ちに負けた。

 広島を発って1時間ぐらいした時,広島の空に原子爆弾が炸裂した。その母の友達はあの原爆ドームに象徴される爆心地からわずか1kmくらいの所に住み,一家7人全滅となった。

 ちょうどその時刻,広島を背にして腰掛けていた母は,ピカッと何かが光ったのを記憶している。しばらくして乗務員が「先ほど広島に新型爆弾が落とされました。みなさん,できるだけ白い服を着てください」と叫びながら社内を移動していたという。

 母は,この話を小学校時代の私にたびたび聞かせた。「あなたがいたから私は命を救われた」と。聞いている私は,いつもおかしいと思っていた。「ボクがいなければ,お母さんはその日広島に行ってはいないはずなんだけど…」しかし涙を流しながらの母の語りはいつも私を黙らせた。

 そしてついにその母の「誤解」を解くことができないまま,私が大学3年の春,母は急逝した。「いま空襲が来れば,私がお母さんを背負って走ってあげるのに」との思いが,その後私の脳裏に浮かんでは消えている。

(まとがわ・やすのり) 


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