No.246
2001.9

<研究紹介>   ISASニュース 2001.9 No.246

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ミクロな原子・分子がマクロな流れを支配する

宇宙科学研究所 坪 井 伸 幸  



◆ナノテク

 最近では,新聞でよく「ナノテク」という言葉をよく見かけます。ナノテクとは,ナノテクノロジーの略で,物質を構成する原子・分子を直接取り扱う技術です。この技術は,工学の分野では宇宙,半導体,材料などで,また生物の分野ではバイオ(遺伝子,タンパク質,薬品)などで大変重要な技術です。最近では,原子つを直接制御する技術も見られるようになってきました。
では,なぜそういう技術が必要になってきたのでしょうか?
その理由のひとつには,ミクロな原子・分子そのものを直接制御しなければ,私たちが必要とする物質を作ることができなくなり,また私たちが必要とする情報が得られなくなってきたからです。


◆ミクロな原子・分子の世界

図1 酸素分子(赤色の分子)とグラファイト(緑色の分子)の
干渉の分子動力学法によるシミュレーション 

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用語解説
シュレディンガー方程式
 ミクロな原子・分子を実験的に取り扱うことはまだ大変難しいところがあります。しかし,数値シミュレーションでは実験より遙かに簡単に原子・分子を取り扱うことが可能です。この数値シミュレーションは,分子動力学法 (Molecular Dynamic Method ) と呼ばれており,一般に頭文字をとって MD法と呼んでいます。この方法は,ニュートンの運動方程式と,互いの原子・分子が及ぼす相互作用である分子間力などを組み合わせるものです。この数値シミュレーションによって,ミクロな世界での原子・分子の挙動を把握することができます。たとえば,酸素分子(赤色の分子)と炭素結晶のひとつであるグラファイト(緑色)の干渉の計算の一例を図1に示します。ここでは,計算の簡略化のため,グラファイトは3層から成っています。この計算では,酸素分子の運動エネルギーや,酸素分子が回転するエネルギー,グラファイト表面の温度をいろいろと変えることによって,酸素分子がグラファイトと干渉した後,どのように反射したり,吸着(酸素分子がグラファイト表面に捕らえられる)したりするかを計算できます。このような計算により,ミクロにおける必要な情報を得ることができるのです。

 ここで,ミクロな原子・分子の挙動をもっと厳密に調べるためには,量子力学が必要です。原子・分子の量子力学的な振る舞いを取り扱う計算方法は,量子動力学法( Quantum Dynamics Method ) あるいは量子分子動力学法( Quantum Molecular Dynamics Method )と呼ばれます。一般的に,それぞれ QD法または QMD法と呼ばれています。量子動力学法は,シュレディンガー方程式を数値的に解くものです。また,量子分子動力学法は,分子の自由度に応じてシュレディンガー方程式とニュートンの運動方程式を分けて解きます。ここで分子は,分子の移動すなわち“並進”,分子の“回転”,分子を構成する原子間距離の変動すなわち分子の“振動”,そして原子核を回る電子の軌道が大きくなる“電子励起”のつの自由度があります。量子力学の効果が顕著に現れてくるのは,分子の自由度のうち,振動,電子励起に関する自由度です。

 原子・分子の挙動をすべて量子動力学法で計算することは,現在の計算機の能力を大きく超えてしまうため,分子の自由度に応じてシュレディンガー方程式とニュートンの運動方程式(通常は並進・回転をニュートンの運動方程式,残りをシュレディンガー方程式)を分けて解く量子分子動力学を使います。それでもまだ原子・分子の振る舞いを調べるには計算負荷が大変大きく,精度の面でも改良の余地がたくさんあります。そのため,量子力学的な効果を含まない分子動力学法で計算する方法がまだ主流です。

◆モデル化の必要性

 これまでに述べた方法によって,ミクロな原子・分子の振る舞いを把握することができます。では,マクロな流体の流れにミクロな原子・分子の振る舞いをどのようにつなげるか,という問題があります。一つの方法は,もっとたくさんの分子を使って,分子動力学法により計算する方法があります。しかし,原子・分子の長さのスケールはおおよそナノメートルです。私たちのスケールはメートルですから,実にオーダーとして9桁違います。私たちのスケールで分子動力学法により計算する場合,たとえば1気圧の気体では1モルあたり6 x 1023以上の分子を使う計算をしなければなりません。これはとても非現実的です。そこで,ミクロとマクロをつなげるために,適度な関数などを使う,モデル化が必要となってきます。そして,そのモデル化に必要な情報はあらかじめ分子動力学法で得ることができます。気体の数値シミュレーションをするならば,分子同士の衝突の際に必要となる衝突断面積(分子同士が衝突したと見なせる断面積)や,衝突の時にお互いの分子が持っているエネルギーの交換確率などが必要になります。

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用語解説
Navier-Stokes方程式

◆マクロな流れに向けて

図2 平板周りのマッハ数20の希薄気体流れ

 ミクロな情報を含んだモデル化によって,マクロな流れの数値シミュレーションをする準備ができました。これから示す例は,希薄気体流れを扱うので,DSMC法( direct simulation Monte Carlo )という方法を用います。DSMC法とは,確率を用いて分子の移動と衝突を決定する方法であり,分子動力学法よりももう少し大きなスケールや,多くの分子数を用いた計算ができます。この結果の一例を図2に示します。マッハ数20,すなわち音速の20倍の低密度な窒素気体流れの中におかれた平板周りの様子です。この計算条件では,分子同士が互いに衝突するまでの距離(平均自由行程)は1mmのオーダーであることと,衝撃波は平均自由行程の4〜5倍ほどになるので,特に平板の前縁近傍の衝撃波は非常に厚く,そして不鮮明になります。DSMC法を用いることにより低密度な流れの数値シミュレーションが可能になりますが,私たちの周りの環境における数値シミュレーションをするには計算機の能力がまだまだ足りません。その場合はNavier-Stokes方程式を使用して,流れ場を連続体的に取り扱う数値シミュレーション,すなわち CFD( Computational Fluid Dynamics ) を使います。CFDはここ20〜30年で大きく発展してきた数値シミュレーションであり,航空機,自動車,列車などいろいろな分野の設計では,もはやなくてはならないものになりつつあります。しかし,ミクロな原子・分子がマクロな流れを大きく支配するような化学反応を伴う流れや,化学反応を含みかつ,音速の4〜5倍以上の速い流れ(極超音速流れと呼びます)を精度よく計算できていません。さらに,気体分子同士の干渉よりも,気体分子と固体表面の干渉の方が格段に複雑であり,難しくなります。このような分野ではミクロな原子・分子の情報が本当に正確にわからないと精度よいマクロな流れの数値シミュレーションはできません。

 これら一連のミクロな原子・分子の挙動とマクロな流れの相関をイメージ化したものを図3に示します。この図から,スケールの違いと異なるスケール間の間にどのようなモデル化が行われているか,容易にわかると思います。

図3 ミクロな原子・分子の挙動とマクロな流れの相関の概要

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◆数値シミュレーションは検証が必要

 さて,これまでに述べてきた方法によって行った数値シミュレーションが実際の状況を模擬できているか判断するために,どうしても実験による検証が必要になってきます。たとえば,先ほど述べた希薄気体流れの計算の場合は,低密度な流れの環境の中におかれた平板が対象でした。実際に行う実験では,低密度タンクの中に音速の5倍の流れを作るノズルを設置し,ノズル出口に平板を置きます(図4)。この実験では,必要なデータを得るために,平板周りの流れ場を非接触で計測する,電子線蛍光法を使いました。電子線蛍光法とは,十数kVの高電圧をかけて真空中を流れる電子ビームを作り,このビームと気体分子が干渉するときに発する蛍光を計測するものです。気体分子が電子ビームと干渉すると,気体分子の内部自由度(分子の並進を除く自由度)の状態が変化(励起)し,すぐに蛍光を発して別の内部自由度の状態に変わります。この蛍光を計測すると,分子が持っている回転のエネルギー状態がわかります。この実験によって,これまで述べてきた方法によって行った数値シミュレーションが,正確に物理現象を再現していることが確認できました。なお,この実験装置はドイツのアーヘン工科大学衝撃波研究所にあるものです。

図4 平板周りの流れ場を計測するための実験装置

◆これからの展開

 これまでミクロな原子・分子が支配するマクロな流れの数値シミュレーションについて述べてきました。この研究は,1997年から2000年まで東京大学に在籍したときに私が行った研究です。宇宙研では,これらの研究に加えて,再使用型宇宙輸送システムに関するマクロな燃焼・反応の研究をまず行っていきたいと思います。そして,マクロな世界からだけでなく,ミクロな世界からも燃焼・反応の現象が見えてくれば大変面白いと考えています。数値シミュレーションの世界は,計算機と同じように,進歩がきわめて速い世界です。もしかすると,20年後には量子・分子動力学法によって,もっと新しい物理現象が解明され,そしてマクロな現象である気体の流れに不可欠な情報が提供されているではないかと考えます。もし,興味を持たれた方がいらっしゃれば,一緒に研究を進めたいと思います。

 最後に,この研究を行う際に素晴らしいアイデアと適切なコメント,環境をいただいた東京大学大学院工学系研究科機械工学専攻の松本洋一郎教授,ドイツのアーヘン工科大学衝撃波研究所のA.E.Beylich教授に厚くお礼を申し上げます。

(つぼい・のぶゆき) 


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