No.190
1997.1


- Home page
- No.190 目次
- 新年のご挨拶
- SFU特集にあたって
+ SFUプロジェクトを終えて
- SFUシステム
- SFU実験
- SFU運用
- 編集後記

- BackNumber

- SFU略語
- CDR
- CSR
- DSN
- EM
- JSC
- MCC
- PFM
- POWG
- SEPAC
- SFU
- SOC
- STM
- USEF
- NASA安全パネル
- STS-72

栗木恭一


 SFUプロジェクトは文部省宇宙科学研究所(ISAS),科学技術庁(STA)/宇宙開発事業団(NASDA),通商産業省(MITI)の共同プロジェクトとして,1987年より発足した。通商産業省の実務は新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)/無人宇宙実験システム研究開発機構(USEF)が実施した。システムとりまとめ,追跡管制及び軌道運用,NASAとの諸調整はISASが,H-ロケット打ち上げ及び搭載作業はNASDAが,そして実験にかかわる電力,データ処理等のサブシステムはNEDO/USEFが,それぞれ主体となって担当し,他の二者がこれに協力するという体制で実施された。実験装置は,リソース(重量,運用時間など)を均等に分けることを前提に,三者が独自に開発した。

●プロジェクトのはじまり

 SFUの公称は「宇宙実験・観測フリーフライヤー」で1986年に宇宙開発委員会が決めたものである。どうしてこんな長い名になったかは知らない。一方 Space Flyer Unit (SFU)という英語名は1982年頃,当時SEPAC(巻末参照)主査の任にあたられていた大林教授がNASAマーシャル宇宙飛行センターの科学者らと一緒につけた名前である。名付けられたフリーフライヤーは8角形で,これが原形となった。長友教授は「SFとはどうも嬉しくない」と絵空言に終るのを気にしておられたが,筆者はライト兄弟「 Flyer 」の宇宙版として,航空機のように再利用を目指す名前が気に入っている。

 1983年に宇宙研に「小型宇宙プラットフォーム(SFU)ワーキンググループ」が設置され設計が始まった。初期の設計全重量は3トン(H-打上げ時は3,850L)で,「3トンでも小型なの?」とよく聞かれた。当時は,米国スペースインダストリー社,フランスCNES/マトラ社のSOLARISなど5〜10トン級のプラットフォーム構想がひしめいていたので,多少気がひけて「小型」を付けたような気がする。また,初期構想ではスペースシャトルで打ち上げて放出した後,約一週間シャトル周辺で実験を行い,同じシャトルで回収して地上に戻る方式であった。その後1986年に打上げにはH-を使用すること,89年には気象衛星ひまわり5号との二重打上げが決まった。そのためSFUは投入高度約300Hから運用高度約500Hに自力で達することになった。この軌道上昇とスペースシャトルとのランデブ(下降)のため,軌道変換用推進系(OCT)が装備され,650Lのヒドラジンが搭載された。

●概念設計



図1. SFUシステム概観

- Home page
- No.190 目次
- 新年のご挨拶
- SFU特集にあたって
+ SFUプロジェクトを終えて
- SFUシステム
- SFU実験
- SFU運用
- 編集後記

- BackNumber

- SFU略語
- CDR
- CSR
- DSN
- EM
- JSC
- MCC
- PFM
- POWG
- SEPAC
- SFU
- SOC
- STM
- USEF
- NASA安全パネル
- STS-72
 SFUの主構体は図1のように8角形のトラスで,8つの区域に8個の台形箱がはめられている。その2個はバスユニット(BSU),6個はペイロードユニット(PLU)と呼ばれ,後者が実験者に貸し出される。実験者は自分流に,この箱に実験装置を搭載し,試験を済ませ,システムとインターフェイスを整合させれば完了となる。「PLUのアクセスパネル(宇宙側面)が次々に開いて実験が行われれば,これはタンクタンクローだ」と長友教授の発言。旧い世代にしか通用しないとは思ったものの,SFUマスコットとして図2のようなパッチになった。BSU,PLUの最後のUこそSFUの Unit を表し,モジュール設計を果したことになる。これでやっと名前の話に落ちがついた。8角形についてはもう一つ説明が要る。スペースシャトルのカーゴベイ(荷物室)は茶筒型をしており,その利用料金はペイロード(搭載荷物)の軸方向専有率(荷物室の長さ方向に占める割合)又は搭載重量専有率のどちらか大きいほうに比例する。SFUの厚さ方向はカーゴベイ軸と一致しており,NASAエンジニアから「パンケーキのように設計するのがコツ」と教わっていた。そして8角形のパンケーキが出来上がった。プロジェクト管理としてはいつもこの厚さが気になり,アンテナが飛び出したと聞いてはとんでいき,「10センチ1.5億円だぞ」と絶えず「平身低頭」を強要してまわった。SFUシステムの性能実績を表1にまとめた。


図2. SFUミッションエンブレム

 太陽電池パドル(SAP)に関しては初期には屏風型アレイも候補であったが,側面に付けるとアクセスパネルを塞ぐ,図1の上面に乗せると厚みを増やす,などの理由から選ばれなかった。薄膜型アレイにすれば,厚さをとらぬばかりか,20L/kW(駆動部を除く)という軽量化の最先端を行くという魅力があった。開発初期に提唱したプラットフォーム開発心得に,「コアシステム(バス系)にハイテクは用いない.ハイテクは実験として」という一条があった。言い訳はともかく抗し難いものがあり,SAPはSFUコアシステムで唯一の新規開発の項目となった。一翼の長さは約10m,幅2.4m,全出力は3.0kWで,実験用として850Wが供給された。

●NASA安全要求

 推進系燃料には姿勢制御用(RCS),軌道変換用(OCT)ともにヒドラジンを用いた。ヒドラジンに対して極度に警戒するNASA安全パネル(裏表紙参照)とは,開発全期間に及ぶデスマッチを演じた。以前にシャトルでの回収を経験していたESA(ヨーロッパ宇宙機関)のフリーフライヤEURECA( Euro-pean Retrieval Carrier )のグループから,審査の厳しさを事前に聞いてはいたが,聞きしに勝るものがあった。前述の設計基本要求の他の条件,「無人のフリーフライヤー,SFUシステムは有人システムである(シャトル回収の故に)」を思い知らされた。安全パネルが怖れるのは,凍結時に体積が減り解凍時に増えるヒドラジンの凍結・解凍に伴う配管破裂である。SFUでは楕円断面の配管を用いて解凍時の膨張を吸収する設計を第一次安全審査で示し,NASAもこの新機軸を歓迎した。ところが,製作にかかった後で安全パネルの不安が募り,日本にまで足を運んで討議を重ねた挙句,シャトルからヒーター電力を貰って保温をすることとなった。見返りとして,ヒーター系が不調となった場合はシャトルの姿勢により保温することで落着した。ヒドラジン系の設計を終え,一部製作にかかった時点でのコンポーネント追加や型式変更はこの他にもあり,後の射場での不具合の遠因となり苦汁をなめさせられた。大局的に観ると,H-打上げに合わせたスケジュールはシャトルのそれと一年近くの時差があり(NASAは財政事情から一般にスケジュールを圧縮する方向),SFUはあらゆる面で板挟みとなった。

  表1. SFUの性能実績概要
軌道高度打上げ分離時330H
実験運用開始時486H
回収時472H
軌道傾斜角28.5度
形状寸法本体.46m(直径)×2.80m(高さ)
太陽電池パドル24.4m(展開時)×2.40m(幅)
重量打上げ時3850L
回収時3500L
電力発生電力3.0kW
実験用850W
姿勢制御太陽指向,三軸姿勢制御
通信Sバンド
対地上1kbps,16kbps,128kbps
対シャトル1kbps
レコーダー容量4Mビット+80Mビット
微小重力環境地上の10,000分の1以下

- Home page
- No.190 目次
- 新年のご挨拶
- SFU特集にあたって
+ SFUプロジェクトを終えて
- SFUシステム
- SFU実験
- SFU運用
- 編集後記

- BackNumber

- SFU略語
- CDR
- CSR
- DSN
- EM
- JSC
- MCC
- PFM
- POWG
- SEPAC
- SFU
- SOC
- STM
- USEF
- NASA安全パネル
- STS-72
 表1のように通信系にはSバンドを用い,データ処理系は16ビットのマイクロプロセッサ及びデータレコーダから成る。テレメトリデータは実時間データ,再生データとして地上局あるいはシャトル・オービタに送られる.コマンドは実時間,絶対時間,あるいはタイマー等の形式で送られる。NASA安全要求に従い,シャトルに危害を及ぼす可能性のあるコマンドには図3のように3重の禁止(3直列スイッチ)を施した。これに加え,設計が進んだ後に信号の暗号化が要求された。NASAの暗号器,解読器をブラックボックスとして搭載せよという。理由をきくと,見えざる敵からの怪電波対策だとのこと。これに対し暗号器や解読器をSFUに搭載するような変更はその時点では受け入れがたかった。従って対案として,危険コマンドの系統の電源にタイマースイッチを挿入することを提案した。そしてシャトルの飛行士がタイマースイッチのオン,リセットを管理すれば,シャトル側もSFU側も同時に要求を満たすことができる。NASA安全パネルはこれを名案と評価し,他のペイロードにも宣伝してくれた。



図3. NASA安全性対応の例 タイマーによるRFコマンド受信阻止

 地上局ネットワークを図4に示す。鹿児島宇宙空間観測所(KSC)/相模原運用センター(SOC)を主局とし,NASDAの沖縄追跡管制局(OTDS)/中央追跡管制所(TACC)のバックアップ,打上げと回収時並びに宇宙赤外線望遠鏡(IRTS)運用時にはNASAの深宇宙探査ネットワーク(DSN)とチリ大学サンチャゴ局の支援を得た。シャトルがSFUに接近する近接運用時には,SFU運用管制権をNASAに渡し,すべてのコマンドはシャトルから発行されるという了解のもとにSOCの初期設計が進められた。ところがかなりあとの段階で,SOCでのコマンド発行機能を追加することになった。そのお陰で,相模原発行のコマンドがシャトル経由で実行される様子が,NASAが配信する映像で放送され,サガミハラの名が一躍日本,アメリカ中に知れ渡った。



図4. SFU運用管制地上局網

- Home page
- No.190 目次
- 新年のご挨拶
- SFU特集にあたって
+ SFUプロジェクトを終えて
- SFUシステム
- SFU実験
- SFU運用
- 編集後記

- BackNumber

- SFU略語
- CDR
- CSR
- DSN
- EM
- JSC
- MCC
- PFM
- POWG
- SEPAC
- SFU
- SOC
- STM
- USEF
- NASA安全パネル
- STS-72

●開発から打上げまで

図5. SFU主構体(EM)とシャトル・シミュレータ
との構造適合性試験

 SFUの開発では,地上試験モデル(EM)と飛行試験モデル(PFM)を作成した。EMはペイロードユニットや冗長系のあるものなどは単数のみ製作し,構造熱モデル(STM)として,或はインターフェイス立証用として試験に供せられた。図5はロックウェル社ダウニーに於て,1990年に行われた,シャトル・シミュレータとSFU・EM(主構体)との構造適合性試験の様子である。ヒドラジン保温のため,オービタから電力供給を受ける遠隔操作電気アンビリカル(ROEU)の噛合せ試験もここで行われた。シャトルとの通信,アビオニクス(航法機器)適合性やDSNとの通信適合性試験もEMを用いて行われた。EM構体のみは斜めにして輸送できたが,PFM及びコンテナの輸送は路上輸送の許可を得るのに困難を極めた。ゆうに幅5mを越え,トレーラーに乗せると2車線を占拠してしまう。であるから,夜間輸送は勿論のこと,駐車排除など,許可を出す側にも厄介ものと映ったことであろう。ともあれ,関係各位のご努力により,岐阜/名古屋港,鎌倉/江ノ島港,霞が浦/筑波宇宙センター,種子島々内,米国内,横浜港/鎌倉などの陸送と,海上輸送の組合せで輸送を果すことができた。図6は霞ケ浦を吃水の浅い船に積み換えられて進むSFU/PFMを納めたコンテナの姿であるが,牧歌的な風景の裏には大変なご苦労が秘められている。1994年に筑波宇宙センタから搬出し種子島に向かう折りは丁度夏の終りで台風のシーズンであった。雨が少なく霞が浦が浅くて進めない,台風が来ると一気に利根川が増水し危なくて銚子港に着けないなど,心配の連続であったが,何とか9月に種子島にたどり着くことができた。


図6. コンテナに納まり,曳き船により霞ヶ浦を進む
SFUフライトモデル(USEF提供)

 種子島搬入後の電気性能試験は坦々と進んだが,年末から1995年の年始にかけて推進系不具合が相次ぎ,現場も後方支援も緊張に明け暮れ,筆舌に尽くし難い苦労を味わった。いずれ改めて筆をとるとして,ここでは触れずにおこう。我が国初の回収型衛星SFUの打上げは,ひまわり5号(GMS-5)との初のH-二重打上げ,初の3月打上げと,初ものづくしとなった。平成7年3月18日17時01分,図7の如くH--3号機はSFUとGMS-5を乗せ,曇天をついて飛び立ち,またたく間に雲の中に消えた。打上げ管制センタ内は両衛星の軌道投入まではしんと静まりかえっていたが,正しく軌道に(SFUは高度330Hに)投入されたと報ぜられるや歓声で湧いた。記者発表を終えて,打上げ慰労会に出席した折り,太陽捕捉,太陽電池パドルの展開ともに成功の報を聞き安堵した。


図7. H-試験3号機によるSFU打上げ(NASDA提供)
 帰京後1日置いて,3月20日には地下鉄サリン事件が発生。H-/SFU/GMS-5関連のニュースは報道から消えた。5日後にはSFUは運用高度486Hに達し,3月29日までにはコアシステム,実験システムの点検を終え,全て正常と確認された。図8はSFUに搭載された小型テレビカメラ(TV)による展開完了後の太陽電池パドルの姿である。簡易テレビではあったが,意外に解像度は高く,手前の太陽電池セルの見分けもつく。TVは展開モニタ接点スイッチの冗長程度に考えていたが,百聞は一見にしかずの感を深めた。


図8. SFU搭載テレビカメラで撮影した太陽電池パドルの展開


- Home page
- No.190 目次
- 新年のご挨拶
- SFU特集にあたって
+ SFUプロジェクトを終えて
- SFUシステム
- SFU実験
- SFU運用
- 編集後記

- BackNumber

- SFU略語
- CDR
- CSR
- DSN
- EM
- JSC
- MCC
- PFM
- POWG
- SEPAC
- SFU
- SOC
- STM
- USEF
- NASA安全パネル
- STS-72

●実験開始

図9. 軌道上で産卵されたイモリの卵   

 3月29日からは赤外線望遠鏡(IRTS)観測,イモリの生物実験(BIO)が始まった。プロジェクト主査としては,実施機関3者の実験について,機会均等を励行したつもりだが,消耗の激しい液体ヘリウムを使うIRTSと,お産が待てないイモリを相手にするBIOの事情をEIWG( Experiment Investigators Working Group )で理解して貰い,先行が許された。IRTSの望遠鏡開口部には地上で真空を保持するための蓋が取付けられている。この蓋は軌道上で火工品により切り離して放出する。蓋が放出できないと観測が果せないし,そればかりか,放出できずにシャトルの荷物室に収納した場合不意に放出されるとシャトルに危険をおよぼす。したがって蓋が放出できなければNASAは回収を認めない。十分な試験を行っていたものの,やはり一連托生の思いであった。IRTSは首尾よく蓋を放出し,陽よけ(サンシェード)を展開して,日に夜をつくデータ取得が始まった。日米の科学者は宝の山でつかみ取りをしている様子に見えた。4月中旬過ぎに,液体ヘリウムがまだ残っているからと,他機関実験者に一週間の延長を頼んだ時は,うれしくもプロジェクト主査たる面目はどこかに忘れてしまっていた。BIOもテレビ画像(図9)で産卵1個を確認。打上げが延びた時にはBIO実験担当者からイモリはもうあと何日でお産ですと迫られていただけにほっとした。卵以外に画面で,ここが母親の足,腹ですと説明を受けても,部外者の筆者には判らない。4月下旬からは他の実験も始められ,8月末まで順調に進んだ。コアシステム共々,正常ですとの報告に馴れると,通常の衛星ならこれで終るのにというたるんだ気分になりかかった。

●回収準備

 8月に入ると,NASAミッション管制センター(MCC,ヒューストンのジョンソン宇宙センター内)と連携した回収運用訓練JIS( Joint Integrated Simulation )が実験の間をぬって始まった。飛行士がシャトルで発行する一部のコマンドを除いて,ほとんどのコマンドが相模原運用管制センター(SOC)から発行されるので,相模原の任務は重大である。ヒューストンと相模原間の会話は日用語でなく,航空管制用語あるいは軍隊用語と類似である。Yes Affirmative,No Negative となるといった具合。言葉の障害を乗り越えられるかと心配していたが,相模原チームは運用を終える頃にはNASAのベテランと対等にやり合うまでになり,心配は取り越し苦労であった。ヒューストンスタッフは相模原の成果をたたえ,今回限りで相模原チームが解散するのは惜しいと最大級の賛辞を表わし,SFUフライトディレクタを勤めた山田助教授は表彰を受けた。

 実験が終った後,シャトルによる回収が一カ月以上延びたので,1995年11月初めまで太陽電池アレイのような柔軟構造をもつ宇宙機の動特性取得等を行い,11月からは回収にかかわる機能点検を行った。点検の一つに待機している冗長系の機能確認があった。冗長系を確認したいとNASAに伝えると,拒みはしなかったが,「我々だったらやらない」と薄笑いしながら云う。あからさまに云わないが,「何かあったときに灯を入れるのが冗長系。仮に不調と知れたらどうするつもりか」と云いたいのだろう。日本側の考えは,「その場に至って慌てるのでなく,予め策を練っておく」にあるのだが,まさしく文化の差を見る思いがした。彼ら(NASA)もそのことは承知しており,話は,ロシアはこうだ,イタリーはああだと文化論に花が咲いて終った。とにかく日本流は実行され,冗長機能は正常と確認された。

●回収

 1995年の暮,回収準備完了と思われていたSFUに不具合が発生。12月26日,姿勢制御用推進系のスラスタ12基のうち2基が不調となり,明けて1996年元旦に解析結果を携えてヒューストンに飛ぶ。1月2日から安全パネルと討議を始め,翌日にシャトルの支援を若干増やせばSFUは回収可能な状態にあると判断され,1月4日の飛行準備完了審査会でSTS-72(略語参照),エンデバー号の打上げが GO となる。前年同様に慌ただしい年末年始であったが,とにかくシャトル打上げにこぎつけた。ヒューストンにはペイロード代表として,宇宙研から筆者の他に小野田教授がカスタマ支援室(CSR)に詰め,NASDA,USEFの代表と共に二交替の体制で回収運用にのぞんだ。勿論,実務部隊は二宮教授指揮のもと相模原のSOCにあって,CSRスタッフは事があった時のNASAのMCCスタッフとの協議相手である。エンデバー号は1996年1月11日18時41分(日本標準時,以下同じ)に打ち上げられ,予定の軌道に達した。SFUとシャトルのランデブー方式として,初期にはコントロールボックス(会合点設定)ランデブーを検討していたが,1991年頃からシャトルが直接SFU軌道に達するグランドアップ(直接)ランデブーを採用することとなった(但し,シャトルのエンジン不調の場合には,SFUが軌道変換するハイブリッド(複合)ランデブーを行うことが前提となっていた)。1月13日に回収作業の行われた4周回の様子を図10に示す。

- Home page
- No.190 目次
- 新年のご挨拶
- SFU特集にあたって
+ SFUプロジェクトを終えて
- SFUシステム
- SFU実験
- SFU運用
- 編集後記

- BackNumber

- SFU略語
- CDR
- CSR
- DSN
- EM
- JSC
- MCC
- PFM
- POWG
- SEPAC
- SFU
- SOC
- STM
- USEF
- NASA安全パネル
- STS-72
図10. スペースシャトルによるSFU回収運用時刻はミッション経過時刻(MET,日/時:分)

図中の時刻は打上げ時刻から起算したミッション経過時間(MET,日/時:分)である。14時50分には,相模原(SOC)からシャトルを経由してSFUと通信するPI( Payload Interleaver )リンクが確立し,15時44分にはシャトル軌道制御の最終接近開始(TI,Terminal Initia-tion )が行われた。次の周回で太陽電池パドル(SAP)を折り畳んで収納しようとしたが,収納後の固定の確認ができず,予備系,主系,合計3回の部分展開・再収納を試みたものの状況に変化なし。CSRからヘッドホンを通して聞くSOCの室内は騒然としていて,CSRとの連絡係も席から離れている様子。太陽電池パドルの切り離しを決断する前に,既にSOCでは地球指向に姿勢を変えて切り離しに備えていたが,これは回収にとっても都合のよい姿勢であり好判断であった。第3回で再収納が果せなかった後は,MCC/SOCでとび交う声は一段と高くなり,決断の近いことを感じた。気がつくとMCCに居る筈のパウエル氏(NASA運用トレーナー)が筆者の傍らに立って汗をたらし,息をはずませながらもう待てないという。あと2周回を経ると飛行士達は睡眠準備に入る。あと10分とのメッセージをペイロード運用主任のバイサート氏から受けてSOCと合意の上,太陽電池パドル切り離しを同氏に伝えた。「ラッチがかからない場合は切り離し」という緊急時のプランはNASAと合意して訓練もできていたのだが,やはりその段になるとNASAスタッフももう一度試みようというSFUスタッフと心が一つになっていた。SFUの設計基本要求には「SFUは故障しても,身体が半分になっても必ず帰還する事が最優先の要求である」とあるが,これを実行することとなった。切り離しは極めて順調に進み,その後若田宇宙飛行士の操作するロボットアーム(RMS)により,図11の如くSFUはカーゴベイへと納まった。NASA安全パネルの長,バタグリヤ氏は,「切り棄てられるSAPを見るのは技術者として忍びなかった。だが,切り離し機構が切れっぱし一つ残さずに見事に働いたことは誇ってよい成果だ」と声をかけてくれた。

図11. シャトルに回収されるSFU(NASA提供)

●着陸

 シャトル着陸までに,宇宙服の寒冷時試験が行われた際,SFUヒドラジン系の温度が下がり,一騒ぎあった。これはSFUの不具合ではなく,前述の楕円配管の件で合意されたシャトル姿勢による保温のインターフェイスが曖昧になっていたこと,SFUの熱モデル提出後に宇宙服ミッションが決定されたことなどに起因したものである。とにかく宇宙服ミッションも無事達成され,エンデバー号は1月20日16時42分,ケネディ宇宙センターに着陸した。

 1月20日午前10時頃(ヒューストン時間)には飛行士一行がJSC近くのエリントン飛行場に戻ると聞き,CSR一同,ジョーダン氏(SFUペイロード主任),バイサート氏,オースチン氏(STS-72フライト主任)らと一緒に飛行場に向かう。丁度この日,ヒューストンで女性議員の葬儀があり,これに列席したクリントン大統領は宇宙飛行士達と飛行場で会見した。冷たい雨の降る中だったが華やかな歓迎会となった。若田宇宙飛行士と抱き合って帰還を祝った筆者の顔は雨とも涙ともつかず,ぐしゃぐしゃに濡れた。

(くりき・きょういち)



#
目次
#
SFUシステム
#
Home page

ISASニュース No.190 (無断転載不可)