2016年に打ち上げられたX線天文衛星「ひとみ」に搭載された分光装置 (Soft X-ray Spectrometer;SXS)は、デュワー容器内で50mKの極低温に制御されたX線マイクロカロリ メータ検出器を動作させることにより、dE~5eV@6keVの超高エネルギー分解能を達成した。デュワー 容器のX線入射部には、地上での真空保持と打ち上げ後初期の衛星内アウトガスの影響を避けるた め、約3cm径の真空蓋(=ゲートバルブ)が設置された。ゲートバルブは厚さ約270umのBe窓が溶接 され、ステンレスメッシュで機械的強度をもたせている。「ひとみ」衛星は姿勢制御の不具合によ り1ヶ月ほどで運用を断念したため、全ての観測がゲートバルブを通して行われた。打ち上げ前に はゲートバルブの透過率測定は行われなかったため、運用終了後にフライトスペア品のBe窓の透過 率測定を行い、較正データベースファイルが作成された。この際、ステンレスメッシュの測定はな されていない上に、Be窓の透過率モデルにも物理的に原因の特定できない不連続な構造が存在した。 そのため、SXSで得られた「かに」星雲のスペクトルには、特に2.0-4.0keV帯域において、ゲート バルブ由来の系統誤差が顕著に含まれており、高エネルギー分解能スペクトルを用いた天体物理学 の解釈に大きな不定性が残った。 2022年打ち上げ予定のX線撮像分光衛星XRISMに搭載される分光装置ResolveはSXSとほぼ同じ設計で あり、高分解能X線分光で新たなサイエンスを切り拓くことが期待されている。XRISM衛星打ち上げ 後3ヶ月ほど行われる初期観測のデータは全てゲートバルブを通して得られるため、これらのデー タから科学成果を得るにはそのX線透過率を精密に測定しておく必要がある。 本研究の目的はゲートバルブの構成要素であるステンレスメッシュとBe窓の透過率測定を独立に行 い、高精度の透過率モデルを構築することである。これにより、ゲートバルブ起因で系統誤差の大 きかった2.0-4.0keV帯におけるX線分光研究の発展が期待される。我々は宇宙科学研究所X線ビーム ラインにてステンレスメッシュの透過率測定を、KEKフォトンファクトリーと広島大学放射光科学 研究センターの2つの放射光施設にてBe窓の透過率測定を実施した。また、Be窓の透過率カーブに 現れる不連続構造をモデル化するため、首都大学東京にてBe窓のX線回折測定を行なった。これら の透過率測定データを元に、各要素の透過率モデルを作成した。ステンレスメッシュにおいては、 構成元素であるFe,Ni,Crの光電吸収、干渉性散乱、非干渉性散乱及びメッシュ形状をモデル化した。 ステンレスメッシュの開口率は、これまでは設計図から71.0%と仮定されていたが、実際には数%の 系統誤差を持つことがわかった。Be窓においては、(1)Beの光電吸収の効果、(2)微小元素 (Cr,Mn,Fe,Ni,Cu)の光電吸収の効果、(3)Be結晶面に応じた干渉性及び非干渉性散乱成分をモデル 化した。本研究では、透過率不連続構造の物理的描像を理解し、干渉性及び非干渉性散乱として透 過率カーブ全体に取り込むことで、低エネルギー側のBe窓が実効的に薄くなる効果をモデル化する ことに成功した。さらにBe窓透過率には2%ほどの空間非一様性があることを確認した。 本研究で得たBe窓の透過率モデル構築方法に基づき、SXSフライトスペアBe窓の透過率測定データ から再モデリングを行なった。得られた透過率モデルを用いて、SXSで観測された「かに」星雲の スペクトルを再解析したところ、顕著な改善が確認できた。そのため、ここで作成したSXSゲート バルブの透過率モデルは新たな較正データベースとして更新予定である。SXS観測データの再解析 により透過率モデルの改善が確認できたので、この透過率モデルをResolveの較正データベースと しても取り込むこととする。その際、測定したステンレスメッシュとResolve搭載品は開口率が数% ほど異なると予想されるため、打ち上げ後に軌道上での天体観測データから開口率を算出する必要 がある。そのための軌道上較正計画についても本論文で議論した。