太陽輻射圧を実感
図3において、「はやぶさ」がまだゲートポジション付近にいたときは、レンジのO-Cのグラフが上に凸の放物線になっている。横軸が時間で縦軸が距離であるから、これは、まさに1次元の等加速度運動を示していることになる。つまり、地上でボールを垂直方向に投げ上げた場合の運動である。このことは、ドップラーデータによる速度が一様に増加していることからも分かる。なお、イトカワへの接近速度がある程度まで大きくなると、イトカワに近づき過ぎないように、イトカワから離れる方向に加速をする制御を行っている。
ここでちょっと注意をしておくと、「はやぶさ」のイトカワの周りの運動を考える場合には、太陽や惑星からの引力は取りあえず無視して構わない。それは、これらの天体からの引力が、イトカワと「はやぶさ」の両方にほぼ同様に作用しているためである。また、イトカワに対する太陽輻射圧の効果は、無視してもよい。ここでは以上の近似のもとで、解析を行っている。
さて、図3のデータから小惑星の引力がすぐに計算できると思われるかもしれないが、それはちょっと早計である。それは、この等加速度運動をもたらしている主要な原因が、イトカワの引力ではなく、太陽輻射圧であるからだ。「はやぶさ」がゲートポジション付近にいたときの太陽輻射によって「はやぶさ」が得る加速度は、約1x10-4mm/s2である。イトカワからの引力による加速度は、最終的に求められた質量から計算すると6x10-6mm/s2程度であるから、ゲートポジションでは「はやぶさ」に加わる加速度のうち95%くらいは太陽輻射圧によると考えてよい。図1に示されているように、太陽との位置関係によって、太陽輻射圧による加速度の方向とイトカワの重力による加速度の方向がほぼ同じ方向となり、太陽輻射圧があたかも重力のように働いているのである。
日常生活では、太陽輻射圧など気にすることはないが、深宇宙探査機の軌道決定においては、太陽輻射圧をいかに正確に推定するかが軌道決定精度に大きくかかわってくる。通常の探査機の運用では、太陽輻射圧が目に見える形で現れることはないが、イトカワ近傍の「はやぶさ」の軌道運動においては、それがあからさまに見えたことになる。
イトカワの質量推定
小惑星の質量は、小惑星近傍での探査機の運用を行う上で重要であるが、サイエンスとしても最も基本的な量として重要である。小惑星の質量と体積が分かれば密度が計算できるが、密度の値によっては、小惑星を構成する物質や内部構造なども推定できるからである。イトカワは、事前にレーダー観測が行われ、そのおおよその形状は分かっていた。従って、質量についても例えばミシガン大学のScheeres氏らが6.27x1010kgという値を出していた。これは、イトカワの体積を2.41x107m3とし、密度を2.6g/cm3と仮定して出したものである。密度については小惑星の代表的な値を用いたもので、この質量が正しいという保証はない。そこで、「はやぶさ」がイトカワに到着するとすぐに、質量の推定が始まった。
すでに述べたように、最初のうちは「はやぶさ」は小惑星に対してほぼ上下方向に1次元的に運動していた。従って、高校物理の知識でも加速度が計算できる。得られた加速度は、太陽輻射圧と小惑星引力の両方の効果によるものであり、小惑星の質量を求めるためにはこれらを分離しなければならない。分離の方法は簡単で、高度の異なるところで加速度を求め、太陽輻射圧の方は一定だとして小惑星の引力による加速を計算すればよいのである。実際には、太陽との距離が変化したり探査機の姿勢が微妙に変わったりするので、太陽輻射圧の計算においてはそれらの補正をすることになるが、いずれにしても、イトカワの質量は比較的簡単に求められそうに思えた。実際、到着から10月初めまでのデータを使って、イトカワの質量が最終的には誤差15%で求められた。
従って、「はやぶさ」がよりイトカワに接近すれば、質量の推定精度も上がると期待された。ところが、予期していないことが起こった。姿勢を制御するリアクションホイールの1台が、10月初めに故障してしまったのである。もともとリアクションホイールは3台積まれていたが、そのうちの1台は小惑星到着前に壊れていた。ここでさらにもう1台壊れてしまったことによって、姿勢制御はスラスタ(化学エンジン)を使わざるを得ないことになった。問題は、スラスタを使うと、どうしても軌道運動に加速度を生じてしまうことである。そのために、10月以降は、探査機の軌道データから小惑星の質量を推定することが難しくなってしまったのである。
そこで、10月21〜22日に、意図的に姿勢制御を行わない期間を作って、そのときの「はやぶさ」の動きからイトカワの質量を推定することにした。また、11月にはタッチダウンも含めてイトカワへの降下が何度も行われたが、そのうち11月12日の2回目のリハーサル降下のときの軌道を使った質量推定もなされた。これらは、レンジやドップラー以外に、イトカワ表面からの距離の計測値(LIDAR計測値)やイトカワを撮影した写真のデータも使って、「はやぶさ」の正確な軌道を決定し、同時にイトカワの質量を求めたものである。特に、2回目のリハーサル降下の解析においては、神戸大学LIDARチームを中心にして二つの期間で質量の推定がなされた。質量が推定されたときの軌道図を図4に示す。イトカワのすぐ近くを「はやぶさ」が飛行していることが分かる。この場合には、イトカワは質点として扱うのではなく、物質分布(イトカワの形状)を考慮している。