No.190
1997.1


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図16. SFUの開発体制

 図16はSFUの開発体制を示すもので,計画が正式スタートした1987年度末から1988年度初にかけて作られている。枠外の追記事項を除き,基本文書「SFU計画管理の手引き」の中にあり,その後変更はなかった。軌道運用に係わる部分は1つ下のレベルまで加えたが,これも「SFU運用管制計画管理の手引き」の中にある。つまり,SFUの開発は当初から系統的に計画され実行されたということになる。個人的には,「SFUプログラム」の箱が点線になっているのが妙に気に入って(?!),実に味わい深いと思いつつ時々眺めることを忘れなかった。足掛け10年に亘り「システム連絡会議」は殆ど必ず毎週月曜日午前に開かれ,プログラム管理,中でも調整作業の中心場を提供した。栗木教授が準備される当日の議題リストと,システム取り纒め支援マネージャが会議中に作成する議事録―――殆どの場合,それぞれA-4版1〜2枚からなる―――だけでも6B厚のバインダー3冊をフルに占拠している。

 だからと言って,諸々のインターフェイス調整の道程が平坦であったという訳ではない。実験・観測機器は,実験研究者ワーキンググループEIWGの主査が調整役となって3ないし4実施機関がそれぞれの担当分の開発を行った。そのほかのレベルCの箱については各担当主査が取り纒め役となったが,各実施機関が分割して受け持った(費用を分担した)。

 このような結果,あるいはシャトルインターフェイスの変更・スケジュールの改訂・不具合の発生・その他不予期事項の生起などに伴って,“各種”調整は企業の方々を含む多数の関係者にとり,“非常にやり甲斐のある”仕事になったことは確かである。レベルB以下の調整では「篝火が焚かれ怒号とうなり声が飛び交う」(長友教授の表現)ようなことには至らなかったのは確かだが…。

図17. 安全審査完了のあとで
 スペースシャトルとのインターフェイス調整作業は飛行安全,ペイロード運用,地上安全,地上運用に関連して行われ,前二項をジョンソン宇宙センタ(JSC)が,後二項をケネディ宇宙センタ(図16にはNKSCと表示)が担当した。追跡網にかかわる調整作業は,(別途直接の業務契約となったチリ大学サンチャゴ局の運用調整を含め)ジェット推進研究所(JPL)が担当した。調整の場である各種ワーキンググループ会議の頻度はSFU打上げが近づくにつれて密となり(94年だけで私はヒューストンに9回足を運んでいる),SFU打上げ後も,シャトル搭乗クルーを含め日米膝をつき合わせての(肘を張りあってのではない)夜遅くに至るハードワークになることもあった。ただし,緊張した会議やハードワークにも,多数参加の気楽なアメリカ式パーティーが毎回必ず伴ったし(図17),週末の個人的交流や余暇を満喫した方々も少なくない。何十ページにも及ぶファクス(後期にはE-メイルも)が太平洋を越えて往復し,日米両国内の数地点間を同時に結んだ電話会議が頻繁に開かれた.時差は前者に好都合に作用したが,後者にはいずれかの側の妥協を強要した。1989年初めに開設されたUSEFヒューストン駐在員事務所の果たす役割は貴重であった。

 国内・国外を問わず,斯くして育まれた相互の信頼関係とSFUへの情熱が,技術力に支えられたチームワークを生み出し,複雑長期の計画を結局は見事な成功に導いたと言えよう。

(二宮敬虔)


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