No.190
1997.1


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 SFUをNASAのスペースシャトルで回収するための諸条件を定めた「打上げ業務契約書(LSA:Launch Service Agreement )」は,1994年2月7日の深夜,文部省内の一室で電話とFAXによるNASAとの最終確認のうえ,文部省・宇宙研関係者が立会う中,当時の秋葉所長により署名された。LSAの締結という劇的な瞬間はあっけなく終わってしまったが,LSAの締結に至るまでの過程は,山また山(しかもヒマラヤ級)の連続で何度も遭難死しかかった……。

 SFUをシャトルで回収するには,シャトル打ち上げ12カ月前にNASAとの間にLSA及びその他いくつかの合意書を締結する必要がある。しかも回収に係る準備作業を遅滞なく進めていく必要上,LSAを締結するまでの暫定的なものとしての「暫定契約書(IA:Interim Agreement )」を結ぶおまけまであった。宇宙研がSFU側関係機関を代表してNASAと交渉を本格的に開始し,LSAの締結に至るまでに4年以上の歳月が費やされた。

 このように交渉が難航した理由は,NASA側から提案されたLSA案中に悪名高き「 Liability 条項」が含まれていたことにあった。それ故SFU側は,国際共同研究における損害賠償請求権の放棄を定めた「研究交流促進法」及び「同施行令」に従い,SFU計画に参加している民間企業等の関係者のために,SFUとNASA双方が彼等を特定し,かつ双方が個別に指定していることについて大蔵省と事前協議しなければならなくなった。しかしNASA案では,SFUに関係する全ての包括的な放棄を規定しているばかりでなく,シャトルに同乗するSFU以外の計画の関係者など第三者に対する相互放棄をも要求していた。従ってその調整に忙殺され,LSAの締結期日を超過せざるを得なくなった。そこでSFU回収に係る準備作業を進めるための臨時的措置としてIAを結ぶこととなり,難交渉の末ようやく1992年2月に締結にこぎ着けた。

 SFU関係者はただちにLSA等の締結に向けてNASAとの交渉を続けると同時に,国内の関係当局との協議を再開した。当初LSA案の Liability 条項がIAのそれと同一であったので国内協議は実質的に終了しているとの希望的観測が流れていたが,このLSAの協議においてはIAの際とは較べようもない厳しい態度で検討が加えられ国内法令に照らして少しでも疑義が生じると矢継ぎ早に指摘される等,それが甘い幻想であったことを思い知らされた。特に第三者への相互放棄については研究交流促進法では全く想定し得ないものであったため,現行法体制の下では如何ともし難く国内協議は早々と暗礁に乗り上げてしまった。これを打開するため文部省・宇宙研の関係者がNASAに対して何度も日本側の事情を説明しLSA案の修正を求めたが,NASAはチャレンジャー事故を盾に頑として修正に応じなかったため,遂に1993年3月末をもってIAの有効期限が過ぎてしまい,NASA側作業が全面的に停止するという緊急事態を招き,SFU側はまさに四面楚歌の状況に追い込まれた。これを打開すべくSFU側関係機関の一丸となった働きかけが功を奏し研究交流促進法施行令の一部改正が認められたため,ようやく国内での協議を整えることができた。その直後に行われたNASAとの協議でも一部修正のうえ基本的な合意に達することとなり,関係者一同ほっと胸をなでおろした。

 しかし現実はそう甘くない。外務省から現行の日米科学技術協力協定(1989年改正)に「宇宙」の分野が包含されていないことから,「交換公文(EN:Exchange of Note )」を政府間で結ぶ必要があることを指摘され,外務省にENの締結を願うこととなった。当初さほど問題ないと予想されていたこの協議が意外に難航し,米国務省との交渉が何度も決裂するなど思うように進展せず,とうとう年を越す事態となってしまった。明けて1994年はSFUの打上げ1年前にあたっていた。関係者の必死の努力によってようやく日米両国政府の協議が整い,1994年2月4日にENが米国務省において締結された。それから3日後のSFUの打上げを左右するSFU/NASA技術者会議が予定されていた現地時間7日の未明,LSAなどのFAXによる締結を見たわけである。この締結があと数時間遅れればSFUの打上げ,回収はなかったかもしれなかった。

 一連の作業を終えて外に出た時は午前0時を過ぎていた。凍てつく寒風の下に身をおきながら振り向いた私の眼に,そびえ立つ文部省の窓からもれている灯りが何故か妙に暖かく映ったことを今でも鮮明に覚えている。

(田中理子,元研究協力課専門員,現東京工業大学国際協力課長)


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