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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第481号

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ISASメールマガジン   第481号       【 発行日− 13.12.10 】
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★こんにちは、山本です。

 2013年もあと20日あまりとなりました。
相模原キャンパスのある東京周辺では この頃ほとんど雨が降らないので、空気が乾燥しています。

PCなどの電子機器が多いISASでは、静電気対策と風邪対策で加湿器がフル回転です。

 今週は、宇宙機応用工学研究系、総合研究大学院大学兼務の曽根理嗣(そね・よしつぐ)さんです。

── INDEX──────────────────────────────
★01:宇宙の電池屋(夢追い人達へ)
☆02:アイソン彗星の太陽最接近時に太陽観測衛星「ひので」が撮影したX線太陽画像
☆03:宇宙学校・いさ【大口ふれあいセンター】12月14日(土)
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★01:宇宙の電池屋(夢追い人達へ)

 僕は、はじめて「かみさん」を乗せてバイクに乗った。
学生のころ、僕はライダーだった。
北海道には二度行った。種子島にH-Iロケットの最後の打ち上げを見に行ったのも、バイクでフェリーを繋いでの旅だった。家内はビビリである。いや、我が家で僕以外は、ビビリである。ディズニーランドに行っても、誰もジェットコースター系に乗らない。ビックサンダーマウンテンを、あえて一番後ろの席を狙い、両手を挙げて叫びながら乗ったあの頃。

「何もかも、皆、懐かしい。」


 僕の家族は、ただひたすらに散歩をしたり、カヌーを漕いだり、料理を食べたり、・・僕には理解ができない。コーヒーカップ(もとい、ティーカップだったか?)すら、僕にはハンドルを握らせない。そんな家族に、バイクは単に危険な乗り物と認識されていた。

家内が仕事で知り合った方が、言って下さったそうな。

「一度、乗って上げなさい。」


僕は愛車「ジュノー(愛称です。白いバイクなものですから…)」に家内を乗せた。

背中がぽかぽかと暖かい。
ブレーキをかけると腕がはる、・・・・・・・・重い。
後ろから押しつけられるヘルメットでクビが凝る。
でも、まあ、こんな幹事かな・・。

いや、もとい。センセェがジ〜を間違えてはいかん。

「こんな幹事」ではなく、「こんな『感じ』」。

幹事?
感じ?
幹事?
感じ?
幹事?・・・・・・・・そう、幹事と言えば・・・・・・・・・・、


 少し前のことになる。
「きみっしょん」の後で、幹事(もとい,事務局長)をされた田中さんというかたがメールマガジンに寄稿していた。あの時は、読んでいて突然に自分の名前が出てきて少々驚いた。
「きみっしょん」では、学生さん達に、職員の立場からの講演を依頼された。
いつもなら、講演の時には楽しい話しかしない。でも、あの時は、常にはしない話をしてしまった。田中さんが引用して下さっていたように、僕は大人げなくも、言った。

「こちら側に来るのはとても大変です。」


 この子達は、マジで自分の将来を渇望して、ここに居るのだと思った。もちろんそういう子達ばかりではあるまい。でも、そういう子が、世の中の一般的な人口密度は超えて、ここに集まっているはずだ。そういう子達に、どうしても伝えたかった。

「だからこそ、頑張って欲しい。」

君たちが描いている夢の先に、きちんと道があることを知って欲しい。道は、無ければ自分で作ればよいのだと知って欲しい。その道は険しくて、細くて、心細くなることが多いけれど、同じような夢を描く人が、自分以外にもいることを知って欲しい。
それがどれほど勇気に繋がるか、僕も知っているから。


 かつて、スペースノイドの自治権を求める戦いが地球圏で勃発した。後に一年戦争と呼ばれた戦いだった。そんな中、スペースシャトル・コロンビア号の打ち上げをTV中継で見た僕には、宇宙以外の自分の将来が描けなくなっていた。


 もしあの頃、「きみっしょん」というものに参加する機会があったのなら、僕は、迷わず応募をしていただろう。


 僕が宇宙開発事業団(NASDA)に入社したころには、アンビリカルケーブルを引きずりながら「使徒」と「人類」が戦っていた。バッテリモード(もしかするとキャパシタモードかも知れませんが)になると5分しか持たないあたりが、やけにリアルだった。

そんな頃、NASDAでは「サマースクール」という行事があった。高校卒業後の学生達を50人くらい集めて、筑波宇宙センターで5日間のスクールを開校していた。

その卒業生の中には、あれだけ現実を見せたのに、よりにもよって宇宙開発事業団に入社してきた奇特な人たちや、宇宙開発のメーカーに就職した人もいる。何組か○▲□●した人たちもいた。


 もし、僕が大学に入学したころ、このサマースクールに接することが出来ていたら、僕はもっとディープに宇宙への夢に浸り、迷うこと無く自分の将来を描いていただろうし、将来への漠たる不安も、少しは和らいだことだろう。


 そして今、僕は、アジア冬の学校の幹事を勤めている。今年で3年目になった。アンケートや、懇親会の席のメッセージ、帰国間際のみんなの声は、ほぼ同じ事を伝えていた。

「3日間では短い。」
「もっと長く、経験をしたかった。」


 アジア冬の学校は、総合研究大学院大学の物理科学専攻を構成する5つの専攻が共同して開催されている。海外の学生が総研大や、その基盤組織の研究に興味をもち、いずれは留学も考え、科学を通じた世界の架け橋になって欲しい。また、総研大で勉学をする大学院生に対して、同世代の隣人達のアクティビティーについて知る機会を与え、インスピレーションに繋げて欲しい。

これまでも専攻間で連絡を取り合い、それぞれの基盤機関の特色を生かしつつ、少しでも充実した会になるための協調を続けてきていた。その中で、今年は、少し思い切ったアクションをとってみた。


 例年は、2月に開催していた。昨年度の開催の余韻が残る年度が明けたころ、国立天文台の今年度の事務局の先生にご連絡をした。国立天文台は総研大の天文科学専攻としての位置づけをもち、アジア冬の学校にも参画している。

「天文科学専攻と宇宙科学専攻で連携開催ができないか」
相談をする中で、「是非」という意識共有が持てた。


 会期は従来の3日間を5日間にした。前半を宇宙科学専攻のある相模原キャンパスで過ごし、後半を天文科学専攻のある三鷹キャンパスで過ごしてもらう。会期は、例年を前倒して11月とした。


 僕にとっても、興味があることだった。
天文科学専攻と宇宙科学専攻の両方に触れた学生には、両者がどういう風に見えるのだろう。もしかすると、外から見ていると同じような組織に見えているのだろうか?協力関係もあり、またその上でそれぞれに独自性をもつ二つの組織の文化に触れる学生達の顔を想像しながら、準備を進めた。

常に無いことをすると、色々な複雑要因が増える。その複雑さは、あたかも指数関数的に増加する。事務局を勤めた宇宙研の大学院係の皆さんには大変なご苦労をかけてしまった。本当に、本当に、申しわけなかった。

でも、そのご苦労にヒャクバイガエシ。(いや、別に仕返しをしている訳ではないか…)
本当に大変な盛況ぶりだった。

総研大の在学生も協力してくれた。
講義を聴きにきた学生達。ポスターセッションでは、卒業間近の今が一番忙しく不安のただ中にいるであろうD5年生がポスターを出した。レセプションでは、皆が積極的に海外の学生に話しかけてくれていた。

かなえてあげられなかった希望もあった。
「すみません、サクラはどこに行ったら見られますか?」
「ごめんなさい。桜は春の花です。季節外れに咲くこともありますが、今見るのは難しいです。」

「紅葉が見たいです。どこに行くときれいですか?」
「高尾山に行くときれいです。でも、みんなはレクチャーやイベントの関係で夕方までキャンパスにいる必要があります。夜の高尾山は、天狗が出るので、行くことはおすすめ出来ません。」

「富士山はどこから見えますか?」
「相模原キャンパスから見るのは難しいです。三鷹キャンパスに移動するときに、尾根沿いの道をバスが走ります。そのときに、皆さんの進行方向と反対側に、もしかすると見えるかも知れません。」


 帰国前の最後のレセプションが三鷹キャンパスで開かれた時、天文科学専攻の幹事を勤めて下さった先生がメッセージを伝えた。

「人は知り合って直ぐは、ハニカムもの。3日くらいすると、段々と知り合ってくる。5日くらいたつと、人は親しみが深くなり、よりわかり合えるようになる。これまでの学生さん達は、ちょうど、やっと知り合ったころに母国に帰らなければならなかった。皆さんは、ラッキーでしたね。」


 ムスリムの女性が、目を輝かせながら話しかけてきてくれた。ブルーの瞳がきれいな女性だった。
「自分は感動した。もともと自分はシャイで、こういうイベントに出ることが苦手だった。そんな自分にとって、人生を変えるイベントだった。帰国したら、もっと多くの学生達に、こういう素晴らしい出来事が日本にはあることを伝えたい。弟に、伝えたい。」
(そういえば、サマースクールで、同じようなことを言った女性がいたなあ〜。)

お互いに手をさしのべ合い、握手をするようなタイミングだったけれど、ムスリムの習慣として、こういう時に握手をして良いのかが解らない。僕は、両の手をムンズと結び、ひたすら言い続けた。
「サンキュー。」


 隣国の学生はひとしきりメッセージを伝えた後で、言ってくれた。
「I love Japan.」

日本の女学生がみんなに向かって手を広げて、飛び出すように言っていた。
「アイ・ラブ・ユー。」
(ニッポンも、なかなかやる。)


 月曜日からスタートした行事は惑星の運動のように粛々と進み、めまぐるしい5日間の日程が終了した。
土曜日、僕は、動けなくなっていた。
鼻水は垂れ、頭は鈍痛、喉の痛みに、少々の発熱。大学院係の皆さんに比べれば、僕のしたことなんて少しばかりの事なのに情けない。アドレナリンが切れると、・・・・・・・・こんなものか。

この後は、総括が残っている。
来年度にむけて、これからのあり方を考えたい。


 イベントが終わり、僕は研究に戻った。
僕は新幹線に乗っている。宇宙に挑み、地球を救うために。
トンネルを抜けると、そこはミゾレ交じりの雨が降る世界だった。

がんばっぺ。

(曽根理嗣、そね・よしつぐ)

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※