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ISASメールマガジン

ISASメールマガジン 第233号

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ISASメールマガジン   第233号       【 発行日− 09.03.10 】
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★こんにちは、山本です。

 231号の【今週のはやぶさ君】で紹介されていた、「はやぶさ」運用時のディスプレイの壁紙について、読者から「せめて、自宅で探査機運用の気分だけでも味わいたい」とメールをいただきました。忙しい知り合いの担当氏にWebページに掲載したいとお願いしたところ、「ワークステーション用なので、PC用に変更するのに少し時間をください」という返事でした。今しばらくお待ちください。

 今週は、宇宙探査工学研究系、宇宙の電池屋・曽根理嗣(そね・よしつぐ)さんです。

── INDEX──────────────────────────────
★01:宇宙の電池屋ー走るー
☆02:小惑星イトカワの地名、新たに14個をIAUが承認
☆03:今週のはやぶさ君
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★01:宇宙の電池屋ー走るー

 2008年10月、僕はローマを走っていた。
ホテルにたどり着いたのは夜遅かった。海老沢教授のようなロマンスは無かった。ただただ疲れて、ベッドに横になった。朝、目が覚めて、学会会場に向かって驚いた。目の前が遺跡だった。日本でいえば縄文時代か弥生時代だった頃の遺跡が、街のいたるところにある。大通りに出て、ふと振り返るとコロッセオがあった。走りたくて、ウズウズしてきた。早起きして、走ろう。コロッセオを2周して、古い館跡を走り抜けた。朝のローマの風は心地よい。気のせいか、石の、赤土に似た匂いがするような気がした。おっといけない、ホテルに戻らないと。僕は奥歯を噛みしめてつぶやいた。
「かそくそう〜っち!」
少しだけ、スピードが上がった。

 2007年5月の連休の前に、家内がビリー隊長のDVDを買ってくれた。飛び石連休に有給をつないで9連休をとった。新婚旅行以来の長期休暇になった。その9日間、ブートキャンプに参加した。僕の体重は5kg以上減った。5kg急に体が軽くなるという経験は、鮮烈だ。女性なら、子供を出産するとこういう経験をするのかも知れないが、男性ではめったに経験できない。兎に角、体が軽い。どこまでも走れるような気がした。それ以来、走ることが僕の趣味になった。子供のサッカーのコーチも、その頃から引き受けるようになった。自分の子供がサッカーを始めたことがきっかけだった。産まれが静岡県であることもあり、僕は物心ついたときにはボールを蹴っていた。サッカープレーヤー特有の体型(プラティニやマラドーナ体型)をもつ僕をみた古参のコーチは、一目で僕が経験者だと思ったそうだ。
「一緒にコーチをしてみませんか?」
仕事は暇だった。それでも引き受けるべきか悩んでいたら家内に言われた。
「本当に教育者を目指したいなら、幼児教育からやり直しなさい。」
家内は、鼻が利く。予兆のようなものを感じるようだ。僕の体質改善に本気で取り組んでくれた。何かありそうだ。家内の言うことは聞いておこう。さて、今のJAXAの状況は? 「きぼう」がそろそろ大詰め。・・・もしかすると・・・・。
「久しぶりにTOEICでも受けておこうかな。」

 2008年3月、宇宙飛行士の募集が予告された。

 スペースシャトル・コロンビアが初めて打ち上げられた年に、僕は人生を決めた。宇宙開発に人生を捧げたい。その頃、地球ではガミラスのとの戦いは過去のものとなり、テレビでもあまり取り上げられなくなっていた。世の中では地球近傍のコロニー開発が盛んになり、ついにはスペースノイドが自治権を求めて独立戦争までおこった。ガミラスの遊星爆弾の次は、コロニー落とし。もう大変だった。僕と同じくらいの年の少年がモビルスーツにのって、怖がりながらも必死に戦っていた。それが、川勝准教授も言った「既定」の事柄だった。
「僕も、宇宙に出たい。」
(*メールマガジン213号:宇宙航行におけるイノベーション 参照)

 毛利さん達3人の宇宙飛行士が選ばれたとき、僕は高校生だった。まだ駄目だ。僕には、まだその時が来ない。必死に勉強した。
「理系の大学に入らなくちゃ。お金がかかると親に悪い。国立の大学で宇宙工学が勉強したい。」
大学受験の結果は、僕にはつらいものだった。2度の失敗の後、受かった大学では化学を勉強することになった。傷心の僕は、映画館に行った。そこでは、とある星にあるオネアミス王国で初の宇宙飛行士の誕生について、ドキュメンタリーを上映していた。主人公の名は「シロツグ」。僕の名は「ヨシツグ」。次は俺だ!諦めてはいけない。

 僕が大学院に入学した頃、二度目の宇宙飛行士の募集があった。若田さんが選ばれた。申し込んだが、そもそも規定に合わないとの通知を受け取った。社会人経験3年以上の規定は全く満たせない条件だった。

 大学院を卒業し、宇宙開発事業団(NASDA)に入社が決まったとき、周りの皆に言われた。
「曽根さん、顔が変わったね。」
確かにそうだったかもしれない。宿願を叶えた実感があった。NASDAに就職して配属された部署は、自分の希望通りの部署だった。電気化学を専攻して電池の基礎分野を勉強していた僕にとって、電源に係る仕事をもらったことは本望だった。でも、どうしても叶えたい、もう一つの夢が残っていた。
「宇宙に行きたい。」

 その女性はNASDA入社の同期の中にいた。角野直子(今の名は、山崎直子)。あたたかい雰囲気を醸す女性だった。彼女は努力家という言葉がピッタリの女性だった。僕ら同期は仲が良かった。僕は、初月給で王立宇宙軍のビデオを買った。
「みんなで見ないか?」
宿舎の僕の部屋に大勢で集まって、6畳一間のギュウギュウ詰めの中、夜を徹して14インチのテレビ画面を覗き込みながらドキュメンタリーをみた。彼女は言っていた。
「宇宙に行きたいよね。」
「そうだ、宇宙に行きたい!」

 NASDAの夜は長かった。みな遅くまで仕事をしていた。彼女も、よく遅くまで仕事をしていた。
「仕事が大変だ。もうアカン。」
と愚痴をこぼしたとき、彼女にハッパをかけられた。
「もう駄目だといって、本当に駄目だった人を見たことがない。」
「どうしてそんなに一生懸命になれるんだ?」
「私は女だから、いつどういう理由で仕事が続けられなくなるか分からない。だから、できるうちは仕事の手を抜きたくない。やれるうちには後悔の無いよう、一生懸命仕事をしたい。」
その2年後に、宇宙飛行士の募集があった。時は来た。僕も申し込んだ。受験票が来た。宇宙飛行士候補者「777」番。それが僕の番号だった。
「イケル!」
確認が沸いた。でも、僕は書類審査で落ちた。受けたのは英語の試験だけだった。

 2008年3月に募集が予告されたとき、隊長を紹介してくれた家内に感謝した。プロジェクトに追われていた頃に80kg近くまで膨れてあがった僕の体は、今では65kg。誰もメタボとは言わないだろう。体系はボチボチのはず。教員のくせに英語で落ちるわけには行かない。どこまでいけるか分からないけど、頑張ろう。できる努力はしよう。土日には、予備校のときのノートと大学院試験の時のノートを見返す日々が始まった。電車の中では英語のテープを聴きながら、「目に効く3D」をじっと睨んでいた。隣り合わせた人は、かなり気味悪かっただろう。でも、人目を気にしている場合ではない。

 後は何ができるのか・・・・・、
「走ろう。」
近所でうわさが立った。
「曽根君のお父さんって、何かすごい形相で走っているけど、どうしちゃったの?」
努力をしなかったから駄目だったというのは、性に合わない。子供にも、どんな時でも前向きな姿を見せたい。でも決して
「宇宙飛行士の試験を受けたいから」
などとは言えない。そんなことを言ったら、ウルトラ・ハイパー・宇宙・オタクの息子は興奮しすぎてヒキツケを起こすだろう。
家内に話した。
「俺、受けたいんだ。」
「え?受けない可能性があったの?」
「すまん、『伊達と酔狂』だ。宇宙飛行士の試験を受けさせてくれ。」
「どうせ、いつも『ダテとスイキョウ』でしょ。引っ越すとしたらアメリカなの? カザフスタンについて来いって言われても、ちょっと困るけどね。」

 ただ走ったのでは駄目だ。自分に厳しく、ペースを上げて、鍛えるためのランニングをしなければならない。走りながらビリー隊長の言葉を思い出していた。
「ワーク・アウト!ワーク・アウト!ワーク・アウト!ワーク・アウト!」
そうだ、途中でやめちゃ駄目だ。
「やり遂げないと!」
心の中で叫びながら走っていた、と思っていたら、前を歩いている近所の奥さんがビビッて振り返った。(「しまった、声に出ていた。」)

 奥様達から家内が言われるようになった。
「だんなさん、すごく『苦しそう』に走っていたわよ、大丈夫?」
・・・・・だろうなあ。でも、時間がないんだ。そういえば、デブリ屋で木星に行きたがっていたヤツがいたなあ。仕事まで辞めて、背水の陣で頑張っていた。僕にはそこまでは出来ない。でも出来る努力はしよう。
「俺には、時間がない。」
「飛行士の試験までに、あと5kgはオトス!」

 東大で「テクノドリームI」というパネルディスカッションが開かれた。ガンダムの発明者である富野氏がパネラーとのこと。宇宙のエネルギー技術を学ぶ者として、ミノフスキー理論には大変に興味がある。出席した。休憩時間にトイレにいった。横に、富野氏が立っていた。
「すみません、先ほど講演の中でご指導をいただいたJAXAの研究者です。サインをいただけますか?」
僕はガンダムの単行本を出した。
「外に出てからで良いですか? よく、こんな古い本を・・・・・・。」
このときサインに使っていただいたボールペンで、宇宙飛行士の願書を仕上げた。


 語学試験の日が来た。自分で間違えたところに気が付いた。駄目だ、きっと落ちる・・・・・・。2〜3日、走る気力が失せた。でも、また走り始めた。もしかしたら受かっているかも知れない。一次医学試験の切符が来たときに準備が出来ていなかったら悲しすぎる。医学試験に進める前提で、鍛えよう。そうだ、僕の尊敬する、あの人の教えだ。
「常に二手三手先を考えて」
行動しなくちゃ。
(宇宙飛行士になれたら赤い宇宙服がいいなあ〜。)

 筑波に外勤したとき、昔なじみの庶務担当の女性に言われた。
「・・・・・・・曽根ッチ、黒くない!? どこで焼いたの?」
「・・・・・・家の周り・・・・・」
「うっそ〜!」

 語学試験を含む書類審査の結果が届いた。1000人近い候補生の中で、僕は200人に残った。

 走った。ひたすら走った。夜はプールに通った。泳ぎこみをした。大学受験参考書も開いた。大学院受験のときのノートも何度も見直した。僕はまさに受験生だった。宇宙の電池屋に不満があるわけではない。むしろ誇りを感じている。ただ、そういう仕事へのプライドと違うところで、ひたすらに心の中で叫び声が響いていた。
「宇宙に行きたい」
僕が宇宙飛行士に向いているかどうかなんて分からない。僕は自分のことを客観的に見ることなんてできない。あるのは強い主観だった。
「行こう!」
「行きたい!」

 夢を追う中、現実の時も刻まれる。「はやぶさ」のバッテリが全セル死んだ。胸がつぶれる思いで、日々、イントラネット経由でデータを見ながら、これをまとめる決心をした。

 一次医学検査/一般教養試験の切符が届いた。10年かけて語学試験を通ったのだと感じた。家内に言った。
「アホと思うかも知れないけれど、俺は本当に宇宙飛行士になりたい。この夏は、時間をくれ。四十を超えてこんなことを言って、呆れるかい?」
「もともと宇宙探査なんていって言っている時点で、世間の物差しでいえばズレているんだから、いまさら何を言っているの?」
「やれるだけの努力はしておきたいんだ」
「解っている。応援しているよ。」
一緒にサッカーのコーチをしている人たちに、しばらくコーチを休みたい旨を申し出た。
「どうしても仕事上で採りたい資格があるんです。なかなか受験の機会がない資格なので、時間をください。本当に申し訳ない。」
それでも時々練習を見に行ったとき、子供の一人から言われた。
「曽根コーチ、最近、来てくれないよね、どうしたの?」
「ごめん、夢があるんだ・・・・・。」

 一次試験の当日、受付には、同期の一人がいた。思わず、笑えた。

 続々と集まる面々。皆、若い。率直に、若さがうらやましい。僕の場合、初日は性格診断テストだった。二日目の午前中は医学検査と教養試験だった。病院から宇宙センターへの移動するバスの中で、近くの席に座っていた人たちの会話が聞こえてきた。
「俺、今回の試験を目指して本当に変わったよ。お酒も控えてきたし、走りこみもした。泳いだし、心の持ち方が変わった気がする。」
「カップラーメンとかも、本当に食べなかったしなあ。」
「うん、僕もそうだよ」
・・・・・そう、僕も、本当に、そうだった。

 皆、最初は遠慮がちだった雰囲気から、2日間の受験の中でだんだんと会話が広がるようになっていた。必死に走っていた夏、受験に臨むどれだけの人が「まじめに」受験してくるのだろうと思ったことがあった。本当に驚いた。この日、その時に集まっていた200人は、少なくとも、みんな「マジ」だった。その場で同じ時間を過ごしていることに、僕は感動していた。医学検査を終えて昼食をとるとき、一人の候補者が、すご〜くおいしそうにカップラーメンを食べていた。とても丁寧に食べていた。遠慮の塊のように小さなカップラーメンだった。
「きっと、我慢していたんだろうなあ。」
皆、昼食もそこそこに勉強を始めていた。夏休み中の日曜日ということもあって、親子連れで遊びに来ている人たちも同じ食堂にいた。
「わ〜、お兄さんたちが一生懸命勉強しているねえ。」
「みんな、どうしたんだろうねえ。」
お母さんたちが、そんなことを子供たちに話しかけていた。
「そりゃ、宇宙飛行士の試験を受けにきているとは思わないなあ、普通・・・・・。」

 9月の中旬に、その知らせはきた。
 家の中に居られなかった。
「お父さん、どうしたの?」
息子は、父親が何かの試験に必死になっていることを知っていた。宇宙飛行士とは言っていなかったが、庭に出てへたり込む親父はかっこう悪い。不合格通知を手にぼうっとしていると、家内がやってきた。
「すまん、みんなの楽しい夏休みを犠牲にして、オヤジは結果が出せなかった」
「家族が、何かに不満を感じてるとは思わないで。あなたにとって望む結果が出なかったことは残念だけど、でもあなたのことを必要とする仕事が、あるはずよ。」
裏の林では、ヒグラシが鳴いていた。
「・・・・・・ありがとう。次の機会が来るのか分からない。もちろん今の仕事を大切に頑張るんだけど、でもその時がきたら、俺はまた挑戦すると思う。」
「当たり前でしょ、夢は諦めた時に終わるって、いつも言ってるじゃない。」
「もし、どうしても宇宙飛行士になれなくて、もしも宝くじでもあたったら、一緒に弾道飛行にでも行かないか?」
ニコッと笑って家内は言った。
「私は地に足をつけて世界旅行をしながら、きれいな景色を見て、おいしいものが食べたいな。」
君は、いつも正しいことを言う。

 仕事をしながらもボウッとする日が続いた。心が付いてこない中、理詰めで仕事をした。そう、俺は理系だ、理詰めで頑張ろう。頭の中を理屈で埋め尽くして、やるべきことを自分に言い聞かせて、何とか耐えた。

 山崎直子飛行士が宇宙への切符を手にした報道がなされた。・・・・・うらやましい。同期ではお祝いの言葉が飛び交った。
「おめでとう、やっとだね。率直にうらやましい。大変だろうけど、頑張ってな。」

 2008年10月、僕はローマを走った。僕にはピークから20kg減量された体が残された。この体を大切にして、頑張ろう。宇宙に行くのは先延ばしされたけど、僕と一緒に仕事をしたいと思ってくれる人がきっといる。僕は「宇宙の電池屋」。

 2008年12月、僕の高校/予備校/大学と一緒に進んだ同級生が、学会で東京に来た。文字通り、気の置けない友人だ。
「曽根、宇宙飛行士の公募があったよな。どうせ受けているんだろう、どうだった?」
「あかん、駄目だった」
「まあ、死ぬまで、目指せよ。」

 道端で走っていた人がいたとしよう。その人に、
「なんで走っているんですか?」
と聞いたとして
「宇宙飛行士を目指しているんです」
と答えられたら、とりあえず
「こいつ、ヤバイ」
って思うだろう。幸せなことに、僕の生き方を肯定してくれる家族と友人がいる。なんと幸せな人生だろう。そう、神様は、きっと
「お前には、今、お前だからできる他のことがあるだろう」
と言っているに違いない。

 2009年、宇宙飛行士候補者の選抜が終了した。二人の現役パイロットが選ばれたようだ。きっと多くのものを習得して、日本の有人宇宙活動に貢献してくれるだろう。

 もうじき「はやぶさ」が帰ってくる。体力には自信がある。迎えに行きたいな。
 「はやぶさ」よ、少し気が散っていたけど、ごめんね。

(曽根理嗣、そね・よしつぐ)

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※※※ ☆02以降の項目は省略します(発行当時のトピックス等のため) ※※※